書くことについて

書くということ

こうしてブログを書いて10年以上の月日が経ちますが、僕のブログを読んでくれる人も年々変化しているわけで、何よりも書いている僕自身が変化しているということがまた面白かったりするわけです。

学生時代はもとい、社会人になって関西で仕事をしている時も、毎日のように気づきや考えを書くことにぶつけていた時もあります。
今年になって仕事の役割が変わり、日々の濃密な時間の中で「書いて思考する」という時間を取りづらくなってしまったことも、ブログを読み返すと見て取れるわけです。

ブログの更新が1週間、2週間と空いてしまうこともまた、僕の人生の状態を良い意味で表しているような気がしていて、それらも含めて「なるようになるさ」と楽しく思えてきたりもします。

関西時代に書いた仕事のアレコレは、今僕が考えていることとはまた少し違ったりもしているので、そろそろブログのテコ入れと、書いた記事のリライトをしようかなともぼんやり思っていたりします。

人はなぜ文章を書くのだろう

少し前に僕のブログを読んでくれた人が、こんなことを言っていました。

今生きてる、ことがたまにとても不思議におもいます。
生物の一つなのになんでこう、文章を書くんだろう、読書をしたり、世界を知りたくなるんだろう。とか。
この生が終わってしまったら、小さく分解されて、また違う意識になるのかもしれない、とか。
その謎を、生きてるうちに、少しでも探ってみたいと思ってるんです。

いい言葉だなあと。

何で僕は文章を書いているのでしょうか。読書をしたり映画を見たり、知らない世界を知りたくなったりするのでしょうか。

1つ、思うことは、「自分自身を知りたいから」ということなんじゃないかと。

ものを書くということは、自分と向き合うということです。

学生時代にレポートを書かされたり、仕事で企画書を書かされたりすることと、自分自身でえいやっと文章を書くこととは、根本的にその種類は違います。

自分で自ら筆をとって(あるいはパソコンに向かって)ものを書くということは、極めて能動的で精力的な行為です。

わざわざそんなことをせずとも、人は生きていくことができます。
ひとつずつ書くという行為は、とても面倒くさい行為です。

ものを書くという行為を通して僕は自分自身を思考するタイプの人間です。
話しながら物事を整理したり、自分の頭の中だけで整理をしたりできる人は、そもそも何かものを書くという面倒な作業はしないのです。

書くという行為を通して自分の内側を掘り起こして、思考を少しずつ形にしていく。
そうすることで見えてくる新たな自分というものがあるわけですから、不思議なものですよね。

実はこれは書くという習慣を持っている人にしか分からないことだと思うのですが、書いているのは間違いなく自分自身なのだけれども、書かれた文章というのは自分自身とはかけ離れていってしまうことがよくあります。

「これが本当に僕が書いた内容なのか?」と思わされる内容もたくさんある。
書いてみないと、書かれた文章を読んでみないと、自分の内側に気づけないということは多々あります。

 

僕は職業作家ではありませんが、物語を書くことを生業としている人というのは、文章を書くことで旅をすると言います。

村上春樹さんのインタビュー集に『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』という僕の好きな本があります。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)

このインタビュー集は、このタイトル以外あり得ない、と唸らされる言葉です。
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という言葉は、村上春樹さんのインタビュー中の言葉から来ています。

まさしく書くことを通して夢を見るのだと。
そのために毎日目覚めて、自分自身の中にある物語を旅しているのです。