学生時代に没頭した時間が、人生における「努力の水準」になる

学生時代, 大学時代

大学時代シリーズ続きます。カテゴリは「大学時代」というものです。

学生時代は、何かに没頭する時間を持とう。

僕が社会に出ていろんな人や組織を「組織側の視点」から見ることが多くあります。
まあコンサルの仕事というのはそういう「経営的なイロイロ」を考える仕事なのですが、その中で、人の趣向性とか考え方とか、あるいは「こういう人はいいよね」と思わされる人たちというのはある一定いて、やっぱり原点回帰をすると「20歳までの過ごし方」だなあと思うわけです。

20歳までに、本気で何かに打ち込んだ経験があるか否か。
20歳までに、人生を打ちひしがれるような経験があるか否か。
20歳までに、自分の人生と環境を呪いたくなるような、強いくすぶりを経験したか否か。

僕はよく「遺伝子」+「20歳までの環境要因」で大人になって以降の人生が決まるという説を書いていますが、世に出てくる人たちの共通点というのは、大学時代までに、これでもか、という没頭した時間を過ごしています。

その圧倒的な時間という礎があったからこそ、そこから先の人生でも継続することができているし、何よりも努力する水準が圧倒的に高い。

よく、企業の採用の際に、高学歴の人たちでフィルタリングをする理由に「何かを継続してやりきる経験を持っているから」ということを挙げる人がいます。
僕なりにもう少しブレイクダウンをすると、18歳までに勉強に打ち込んだことがある人とない人の差は、「努力の水準」の違いなのだと思っています。

やっぱり受験勉強をクリアしてきた人たちは、そうでない人たちに比べて、努力するという習慣が身についています。

専門学校卒も高卒も中卒も、今の時代はほとんど学力水準は変わりません。
読解力や論理的思考力などを測るテストを課した場合、ほとんど変わらないのです。
ただ、親が「中卒は嫌だから高校に」「四年制大学にはいけないけれど、専門学校なら」ということで、そこにお金を払ったか否かの違いです。

今の時代、「大学くらい卒業しておかなきゃ」ということで、一昔前だと高卒だったような人たちが四年制大学卒の資格を名乗って、企業に就職をしています。
そういう人たちをみていると、やっぱり努力の水準が甘いんだなあと思わされることがよくある。

僕が学生時代までは、同世代や就活周りの人たちと対話をしている時に、気づかされたことです。
そして今の仕事をして、30代、40代以上の人たちとも仕事をするようになって、やっぱり20歳前後で身についた努力の水準というのは、人生の基準になるのだということを学ばされました。
もちろん、変わる人もいます。が、それは20代の環境の中で素晴らしい人たちに出会うことができた、一部の限られた人たちなのだということも同時に学ばされました。

最初に就職した会社が、社会人生活一生の基準になる

これまた厳しい現実の話をすると、最初に就職した会社での当たり前が、あなたの社会人生活の基準になります。
生涯にわたってその軸であるとは限らないですが、基準になるというのは事実なのです。

ぶっちゃけ、最初の就職はおみくじのようなものだと思っています。
運の良し悪しだって重要だし、いい環境に入れるとはもちろん限らない。

けれど、本当にその人に力があれば、必ず5年、10年という時間を通してのし上がってくることができるというのが社会の面白いところ。
そして同時に、時間をかけて、自分の実力の適正値に収まるようになるというのもまた、自然の摂理なのです。

いま、素晴らしいファーストキャリアを歩んでいる人は、あなたの環境に感謝をし、歩んでいけばいい。

でも、最初の就職で少しハズレくじを引いたかな・・と思っている人でも、本当に自分の人生を信頼するならば、絶対に腐らないことです。
環境を変える。付き合う人を変える。そして、勉強をし、やり続ける。

そうすれば、必ず10年という時間軸で、人生のステージは変わります。

僕は最初に就職した会社が、すごくよかった。最高のファーストキャリアです。
正確にいうと、配属された部署と、周りの先輩たちがとても最高だった。

でも、同時に、他の部署や少し環境を違う社内を見てみると、ぶっちゃけ「彼らは大学生のサークルの延長線で仕事をしているな」と思った。
オブラートに包んでいうと、お遊び感覚で仕事をしているなと思いました。

そう思えた所以というのは、後から思い返してみると、僕が大学時代に出会った大人たちや、一緒に事業を作らせてもらった会社が、圧倒的にレベルが高かったからなのだということに気づかされました。
実はそれが、僕の中での仕事の基準、はたらくというレベルの当たり前になっていたのです。

僕はとことん恵まれています。ありがとう。まだまだ、行きます。