結局、知識は学力じゃないよ、という話

2021年9月9日子育て論, 思うこと

昨日書いた「最後のセンター試験」という記事の続き。

最後のセンター試験

難関大学と呼ばれる国立大学上位10校(旧帝大7校+「東工大」「一橋大」「神戸大」)の二次試験には必ず「記述式」の問題があります。しかも難易度は高い。

東大や京大の入試には、二次試験で文系であっても数学が科され、理系であっても国語が科されます。

文系数学も記述式で、基本の範囲とはいえ、記述式で回答を求めらることを鑑みると、ハードルは決して低くはない。

ようは「知識を覚える勝負」をするのではなく、「思考をきちんと文章で書けるか」という部分を見られていて、日本の最高学府とそれに準ずる大学は要は「本当の学力は論述ですよ」と言っているわけです。

そして「暗記科目」と思われている「歴史」(日本史や世界史)の問題も実は、「論述」が求められるというのが面白いところ。

僕は理系なのできちんと網羅したわけではないですが、実は東大や京大の文系入試というのはきわめて理系的な思考が求められる。
暗記勝負ではなくて、知識を組み合わせて文章を書く力。論理的・体系的に物事を理解し、分かりやすく書けるか否かを見られているという点で、例えば早稲田や慶應の文系学部の試験とは対極にあるように見えます。

早稲田や慶應の文系学部の入試科目を見てみると興味深いのですが、彼らはもちろん自分たちの大学にプライドを持っているし、実際に社会的にも「偏差値が高い有名大学」として認知されているわけですよね。

となると、もちろん倍率も偏差値も上がるし、東大や京大と併願する人たちも多いわけですから、それなりの水準の試験が求められると。

でも、彼らの入試に論述は(ほぼ)ありません。
ですが、知識偏重の入試であることに変わりはなく、あるいは変われないのかもしれない。

するとどうなるか。かなりニッチで重箱の隅をつつくような「え、こんなの、教科書のどこに書いてあるの?」と思わされる知識を問うてくる歴史の問題があったりするわけです。

なぜかというと、知識の有無で入試問題を作成しようと思えば、早稲田や慶應を受験する学生のレベルは水準以上なので、誰でも知っている知識では差がつかないのです。でも、合否は出さなければならない。
となると、結果的に「重箱の隅問題」とならざるを得ないというのが実態でしょうか。

 

さて、僕のいいたいことが伝わりますでしょうか。

論述で学力を図ろうとする大学と、片や「重箱の隅問題」で判断せざるを得ない大学。

どちらがどうとかいう問題ではないのですが、本質的な学力は差が開くよね、という当たり前の話です。

 

ディスっているわけではないですよ、念のため。

早稲田や慶應の名誉のために書きますが、こういうことを書くと「なーんだ、知識を覚えたら行けるじゃん」と思う人たちも多いはず。(実際にたくさんいるでしょ?そういう人。僕の高校にもたくさんいた記憶)

でも、純粋に学力で入学試験をパスしようと思えば、相当のレベルが求められるし、大半の日本人には何十年やっても無理です。

僕が理系なので重ねていうと、早稲田の理工学部は極めてレベルが高いですし、旧帝大の理系学部と遜色ないレベル、もしくはそれ以上でもおかしくありません。
(ちなみに慶應の理工学部が頑張っているのはここ最近の話。僕らの親世代の人からすると「早稲田の理工学部」と慶應を一緒にするな!と怒る人も多いかもしれません)

和田秀樹さんがその昔、都心と地方に受験の情報格差があった時代に、全国の受験生の親御さんたちの「早慶」という夢を与えたことが一つのきっかけ。
その後、少し前の「ビリギャル」のように、一発逆転!という夢を受験産業に持ち込んだのも興味深いですよね。

そう、受験業界というのは「受験産業」ですから。特に私立大学にとって受験はビジネスです。

 

少し話がズレましたが、センター試験が「大学入学共通テスト」というものへ移行し、記述問題が導入されるということの背景には、いまの日本の大学受験の過去があることを書きたかったということです。

本気で人生を変えたかったら、勉強しよう

少し前に「国語力」について書いたことがあります。

その中で、それとなく大人になってしまって本を読む習慣がない・・という人は、中学受験用の国語から学び直しをしてみませんか?ということを書きました。

「読書は大事」というけれど、国語力がなければ「読書しよう」とは思わないじゃないか

実は義務教育の教科書というのは、後の人生になって眺めてみると、よくできているものが多いと思います。

今の日本の教育のあり方に問題を呈する人たちも多いですが、「学校教育の仕組み」と「義務教育の教科書内容」はまた別の話で、僕はどちらかというと今の日本の「学校教育の構造」の方に問題があるのではないかと思っている。

構造や仕組みの問題とは別に、義務教育で習う内容はいずれにせよ必要であり、かつ重要なものなのではないかと思うのです。

特に大人になってある程度の人生経験を積んでから、今の義務教育の教科書を見返してみると、すごく良質にまとめられていることに気づくはずです。

国語から始まり、できれば社会なんかも面白いと思う。国語と社会は、リアルな社会を生き抜く上で必要なエッセンスの塊ですから。
興味があれば、算数・数学や理科も見てみると役に立つことも多いはず。

 

結局のところ、個人が自分自身の人生のステージを変えようと思ったら、勉強をするしかないのです。

矛盾するような話を書きますが、何を勉強するかと言えば「漢字ドリル」を学ぶわけではないですよ、念のため。

リアルな世の中の勉強をするのです。お金の勉強も必要です。科目は無限にあります。そのためには本を読めなければならない。

でも、本を読めない人に足りないのは「国語力」だったりするので、であれば中学や高校入試の文章や知識を得ることから学び直してみてはいかがですか?という話です。

大人になってからざっと学び直しをするだけで、圧倒的に頭が良くなることを実感できるはず。昔ほど時間はかかりませんから、きちんとやっても1年単位でメキメキと人生が変わります。

できればセンター試験水準の文章がスラスラと読める&理解できるところまでは行って欲しい。そこまで行くと、世の中で出版されているほとんどの書籍を読めるようになります。

ということはつまり、世の中のほぼ全てのことをネットや書籍ベースで、自ら学ぶことができるようになるということ。
(それでも理解できないような専門的な範囲は一旦置いておいて良い)

ちなみに世の中にはたくさんの資格試験が溢れているけれど、本気で人生を変えたかったら、お手軽な資格試験なんかに逃げるんじゃなくて、きちんと学び直しを積み上げた方が絶対にいい。

 

僕のブログに何度か登場する、仲の良い弁護士の先輩に言われて嬉しかったこと。

以前僕が彼に「勉強していてよかった」と漏らした時に、「そう言えるのはすごい」と言ってもらえたのですが、あれから何度もその言葉を繰り返してもらえるのです。

そして「僕も勉強していてよかったと思えるように生きる」ということを言っていて、その言葉がすごく感動した。

畢竟、独学に勝るものはない。

僕が大学時代に書籍を通して学ぶことから教わったことです。

自分で学べるようになることこそ、勉強してきたことの1つ目のゴール。
そのゴールを通過すると、さらに勉強の楽しさが開けている。

 

勉強せずとも生きていける。
けれど、勉強できる生き方は最高だ。