「習っていません」は社会では通用しないと思う
千田琢哉氏の『教養本』がある。
これは、いい本ですほんとに。
久しぶりに、本全体で電撃が走る本だなと。
- 作者: 千田琢哉
- 出版社/メーカー: 学研プラス
- 発売日: 2016/12/06
- メディア: 単行本
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やっぱり、人間に生まれてきたからには、頭脳を鍛えることがしあわせなのだと思うんです。
人間が他の動物よりも明らかに秀でているのは頭脳しかない。
生涯にわたって学び続けること、教養を磨き続けることが、生きるってことなんだと思います。
「知りません」が3度続くと、そのご縁は流れる
これはものすごく的を射た言葉だと思っていて、僕ら20代はまだ若いという幻想を抱いて生きています。
20代なんていうのは、いろんなことに挑戦できる可能性と同時に、何もできない現実を抱えて生きている。
だからこそ、素直に教えを請い、学び成長し続ける必要があるのだと思います。
何もわからない僕ら20代がわからないことに出会った時に「わかりません」ということは大切だと言う一方で、何でもかんでも「わかりません」と言い続けるのは違うと思うんですね。
特に社会は学校ではありませんから、「知りませんでした」とか「習っていません」というのはひたすらこちら側の都合であり勉強不足であって、「習っていないから、しょうがないじゃん」と開き直っているのは違います。
僕らはまだまだ未熟ですから、多くのことを教えてもらえる立場であることは間違いないけれど、だからといって勉強不足であってもいいわけではない。
「知りません」が続くと、そのチャンスは流れていくものなんですね。
ご縁を繋げるのは教養だということを実感した大学時代
僕の話をすると、この大学時代のご縁で、上の世代の方とご一緒することが多かった。
僕が気づかぬうちにゲームオーバーになり、ご縁が流れているものもあるはずですが、それでも少なくとも出会いの中でその大半はきちんと今後も続くご縁として繋がっています。
それはきっと、教えてもらったことを素直に吸収したから、あるいは少なくともその姿勢があって、次にお会いした際には何かしらのアクションを起こした後だったからこそのものだと思っています。
「世代が違うから、しょうがないじゃん」とか「古い感覚だよね」と一蹴するのは自由ですけれど、そのままチャンスが流れていってしまっていることに気づく感性がなかったということです。
それは僕が10代から読んでいた本で知っていたことで、だからこそ僕は自分の教養を磨いてありたいと思っているし、知らないことは恥ずかしいことだという感覚で生きています。
(僕自身が教養があるとは1ミリも言っていませんよ、あくまでも教養が大事だと思っているということです)
これから社会に出る僕にとって、教養を磨き続けることはそのまま人生を磨き続けることになると思っています。
それに気づかせてくれた大人たちとの出会いに感謝。