アイデンティティーとは何か?〜首里城の全焼から想う

2019年11月1日思うこと

10月31日、秋の最中、10月が終わりを迎える最後の日の午前2時半ごろ、沖縄県那覇市の首里城がほぼ全焼の被害を被ったというニュースを朝起きて目にした。

夜中の出来事だったので、朝起きてからニュースを目にした人も多いと思う。

この映像が繰り返しSNSやニュースで流される中、僕はぼんやりと18年前のことを思い返していた。

ニューヨーク同時多発テロ事件。
そう、史上最悪のテロ事件の一つとして有名な「9・11」である。

あの事件が起こったのは、今から18年前の2001年の9月11日。
今から18年前ということは、僕はまだ8歳の時だった。

8歳の僕はあのニュースをもちろん日本にいながら、TVの画面越しに飛行機がNYのワールド・トレード・センターに突っ込んでいく映像を繰り返し繰り返しみていた。

当時、NYは昼間で、日本は夜だった。
確か眠ろうとしていた夜遅くの時間だったと思うけれど、実家についていてるTVの映像が妙に印象に残っていて。

ビルが燃えて煙が立ちのぼる様を最初見たときに、僕は煙突の映像だと思ったことを、今でもはっきり覚えている。
そして、飛行機が追突していくシーンが映し出され、その映像を繰り返し見ながらようやく「これは飛行機がビルに突っ込んだから、煙突のように燃えているのだ」ということを、幼心に理解したのだった。

アイデンティティーの崩落

当時を詳しくリアルタイムで知るわけではないのだけれど、後々になってやはりあの事件が一つアメリカの、そして日本と世界の、何か心の”しこり”のようになっている様を見受けることが何度かあった。

ニューヨークという世界的な大都市の真ん中で、当時のアメリカ・ニューヨークのシンボルであったワールド・トレード・センターが一瞬にして崩壊する。
そしてその崩壊は、同時に国民のアイデンティティーをも崩壊させたのだということ。

今朝の首里城の崩壊は、まさしくそのシーンをフラッシュバックさせるには十分すぎるほどに衝撃的な出来事だった。

 

人はなぜ、アイデンティティーを抱くのか。その正体は何か。

人類の歴史上、切っても切り離せないその問題が、人々の「家族」という安らぎと、そして同時に「争い」を生み出してきたのではないかと思う。

例えば僕ら日本人は、ラグビーワールドカップのときに、多くの人が命令されたわけでもないのに日本代表のチームを応援する。

言われてみると、これはとても不思議なことではないだろうか?

なぜ僕ら日本人は、南アフリカでもフランスでもニュージーランドでもなく、日本代表を応援するのだろうか?

甲子園でもそうだと思う。日本の中で高校チームが汗水を流しているのだから、そこに応援の優劣はないはずにもかかわらず、多くの人たちは自分の故郷である都道府県の代表高校を応援する。

自分の国を愛し、地域を愛し、そしてそこに生きる家族を愛する。
その中にいる「自分」という存在こそが、まさしくアイデンティティーの正体なのだと思う。

だからこそ世界は、それらのぶつかり合い、思想のぶつかり合いによって、ときには争いを引き起こしてしまう。どちらにとっても自分が正義なのだ。

アイデンティティーの集合体こそが国や地域のシンボルであり、その存在が否定されたり攻撃されたりすることは、そこに住む人たちの存在を否定されたり攻撃されることと同義なのであろう。

 

昨日までそこにあった一つの存在が、あっけなく散っていく様を見て僕らは、自分という存在の儚さと重さを考えさせられる、そんなことを何かが教えてくれたような気がしてならない。