「読書は大事」というけれど、国語力がなければ「読書しよう」とは思わないじゃないか

2020年1月13日思うこと, 書くということ

おかげさまと言ってなんだけれど、社会に出て改めて、10代までに勉強をしていてよかったなと思っている。

勉強をさせてくれた親に感謝なのだけれど、逆に今は僕が両親に対して社会の学びや情報を提供できればと思いつつ、これからの時代の話だとか、読んだ方がいいと思える本だとかを少しずつ提供できればと思っている。

大学時代から、僕は両親に対して「この本はよかった」「お金の勉強をしようよ」「これからの生き方の変化について書かれているよ」というように、あらゆる本を薦めてきたのだけれど、実は思ったよりも反応があるわけではないのだ。

僕は僕なりに読んだ本の先にある学びに興奮して、それを共有してきたつもりだったのだけれど、あれ?意外と読んでくれないなとか、伝わっていないのかな?と思わされることが多かった。

最初は、僕が学生であることが理由で、説得力に欠けるんだよなと思いながらも、僕が社会と関わり出して急激に証明していったわりには、反応が鈍いなと思っていた。

なんだかんだと僕が大学を卒業し、社会人となって、今まで口にしていたようなこと、いわば「ホラ吹き」的なことも、実はホラではなく事実だと証明できてきたことで、伝わるものもあったと思っている。

 

それでもそれでも、僕の両親の反応は、想定よりも鈍かった。

例えば近年で言うと、「ライフ・シフト」読んだ?だとか、「7つの習慣」の薦めなんかは10代の頃から言い続けていて本もプレゼントした。

つい先日は漫画版もプレゼントしたりね。。まんがでわかる LIFE SHIFT

お金の勉強を一切してこなかった両親に対して「改訂版 金持ち父さん 貧乏父さん:アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学 (単行本)」も薦めて本まであげたのだけれど、なかなか読んでもらえず・・

その中で、つい最近になって気づかされた衝撃の事実がある。

僕の両親が、僕が薦めた本をこぞって読まない理由は、「本を読みたくない」とか、僕が言っていることに反感があるとか、そういう理由ではなく、「国語力がないから本が読めない」という理由だったのだ。

全く気づかなかったし、そんなことは1ミリも考えたことがなかったけれど、紐解いていくとどうやらそれがいちばんの理由だったのだ。

 

大人がゼロから国語力をつけたかったら、中学受験用の参考書から始める

非常に学ばされたと同時に、一つずつ積み上げていく部分をすっぽかして、「この本は良かったから読んで」と言うのは、わりと暴論なのだと気づかされた。ごめんね・・

実は、世の中の大人の大半は、本を読む習慣はないし、たとえ読んだとしても、読解できるほどの国語力を兼ね備えている人は多くはない。

この事実は僕が両親を見ていて気づかされただけではなく、あらゆる世代の人たちを眺めてきたこの数年間の結論として、本当に極々最近気づかされた事実。

 

例えば、大学入試を終えて間もない大学生たちとも多く接するが、入学当初ならまだしも、就活を意識する頃になるとすっかり頭は錆び付いている。
使っていないのだから当たり前といえば当たり前なのだけれど、体と同様に頭も一瞬でなまる。

そこからSPIなど就活用の筆記試験の勉強を始めるのだけれど、10代の頃に余程磨かれた頭脳でなければ、最終的ないわゆる「地頭」と呼ばれている部分では大きく差が出てしまうのだ。付け焼き刃の受験勉強、付け焼き刃の大学の定期テスト勉強をしていただけでは、まあ当然といえば当然の結果だろう。

ましてや社会に出た後に、自ら学ぶ習慣を継続している人は、ほとんどいない。

試しにあなたの周りの社会人を数名思い出してほしい。日常的に学びの継続を行っている人が、どのくらいいるだろうか。
国語力と言う観点でいうと、定期的に本を読んだり、文章を書いたりする習慣を設けている人が、どのくらいいるだろうか。

ほとんどいないと思う。これが社会の実態なのだ。
逆に数名でも顔が思い浮かぶ人がいれば、あなたはすごく恵まれた環境にいるし、またあなた自身もそのような習慣がある人だということだろう。

 

大人がゼロから国語力を身に付けたかったら、基礎ではなくさらに前段階の「初歩」からスタートするといいと思う。

具体的には、中学受験用の参考書で、大手が出しているものを数冊買ってきてこなすだけで、目から鱗が落ちるはずだ。

中学受験用と侮ることなかれ。
義務教育の最低レベルとはいえ、例えば小学校卒業レベルの国語・算数のテストを受けて、満点が取れる大人がどれほどいるだろうか?

断じていうがほとんどいないし、大半の大人は8割にも満たないことを保証する。

いま、この瞬間に抜き打ちで「義務教育卒業テストを実施します。合格点は8割です」と日本国民の全員にやった場合、義務教育を卒業できる人は半分もいないと思う。
(しかも理科や社会という暗記科目ならまだしも、国語・算数のみでやっても、、ね)

僕らが日常使っている日本語というものは、実はこれほどまでに奥が深いと気づかされた時点で、その参考書代と学んだ時間は一生の財産になる。

本を読みたかったら、やっぱり大学受験レベルの国語力はマスト

もし、学び直しというテーマに対して本気なのであれば、中学受験用の参考書を数冊終えた後、高校受験用までは最低でもやってみてほしい。

そしてできれば、やはり大学受験レベルの参考書までをこなすと、世の中にあるほとんどの本を読むことができるようになる。

本を読めるようになるということは、自習ができるようになるということ。

自分で学べるということは、そちら側にいる人にとっては当たり前でも、そうではない大半の人たちにとっては、意味不明な世界なのだ。

 

大学受験レベルの国語力とは、センター試験の現代文で8割程度ということ。

なぜ、多くの大人が本を読めないかというと、もちろん読書習慣がないということも1つの理由だけれど、「読んでもわからない=語彙が足りていない」というケースが圧倒的に多い。

きちんとした文章には、それなりの語彙が用いられているし、周辺知識も求められる。そもそも最低限の語彙と周辺知識がなければ、文章は全く読めないし読んでも頭に入らない。

例えば「具体と抽象」「帰納と演繹」「直喩と暗喩」「対象・対称・対照」といった言葉の意味などがわからないと、文章の意味を理解する以前の問題だということだ。

あるいは前提知識として最低限度の「政治・経済」「倫理」「哲学」「歴史」「言語」「近代化」「情報化」についてのバックボーンなければ、そもそも文章を読もうという気すら起こらないだろう。

逆にいえば、その下限のラインさえ超えてしまえば、無限に広がる知の世界に触れられるし、そこからの旅路は自力で十分だ。

大学受験レベルの国語力は、ゴールではなくその先にある「読書という大海原」への入場切符なのだと思う。

話が長くなったけれど、僕の両親にはそれとなく「学び直し」の機会の提供ができるよう、僕も一緒になって学びができれば思って向き合っている。

そんな中でも、本を読んだり、未来を考えたり、社会を知ったりすることが楽しいと思ってもらえているようで、良かったと思う。

僕ができる恩返しだと思うので、60代以降の彼らの人生がハッピーであればと思いつつ。

こうして綴っているブログを読みにきてくれる皆さん、いつもありがとう。

自分でいいなと思うことを綴っていても、誰かに読んでもらおうと思うのであれば、内容によっては平易な文章を書かなければいけないのだと、改めて大きな学びです。

 

別に読書なんてせずとも生きていける。
けど、ここだけの話、読書の習慣がある人生は至福の人生だ。