未来の若者たちへ【学び続けることのメッセージ】
以前に「エンジニアで就職をするか、東京で著名な方と新たな事業作りに挑戦をするか」と迷っている友人の話を書きました。
僕の大学時代の同期で、今は東京の有名大学院に進学をしている人です。
この週末、彼から近況報告の電話で3時間いろんな雑談をしたことを。
特に意図はなく雑記として書きます。
(いつもブログを読んでくれてありがとう!)
ちゃんと勉強している人と話すのは面白い
これに尽きるのですが、やっぱり政治・経済のこと、経営のこと、まちづくりのこと。
ようは世の中の仕組みについてちゃんと勉強をしたり考えたりしている人と話をするのは面白いよね、という。笑
その彼に限らずですが、例えば20代や30代前半くらいまでは、そういう勉強をコツコツやっている人でも「学者崩れ」の存在として若干白い目でみられてしまうことは往々にしてあるわけです。
世の中のおじさんたちは、熱心に勉強をしている若い世代に向かって「実績もないくせに、生意気な(フン)」と思っている人たちが大多数だし、実際にそういう接し方をする人もたくさんいます。
机上の空論っぽく勉強をするのは、特に若いうちというのは経験も実績もないのですから、当然のことなのです。どうしても抽象論っぽくなってしまう。
でも、そうやってリベラルアーツとしてちゃんと学問をしたことがあるか否かということは、後々になって必ず効いてくるのです。将来「やっていてよかった」と思う実感をしたことがある人は、絶対に若者が熱心に学ぶものを見て「役に立たないくせに」とかは言わないです。
そう、役に立たないのです。笑
大学時代、大学院生時代、リベラルアーツとして、学問として必死に勉強をしたことがダイレクトに社会変容につながるように役に立つほど、世の中は甘くはない。
けれども、「ああ、あれだけ学んだことが、実際の社会では役に立たないのだ」と心の底から気付けるのは、実際に熱心に学んだ人たちだけなのです。
社会人になっても学び続けられる人は稀
20代で学んだことは実社会では役に立たないと書きましたが、実はそれらは全て後になってつながってきます。スティーブ・ジョブズでいうところの「コネテクティング・ザ・ドッツ(connecting the dots)」です。
「くそ、あれほど真剣に学んだことなのに、役に立たないのか」とたくさん思い知って、ああでもない、こうでもないと試行錯誤をする経験。
ようは社会人になってもそのまま学びを継続し続けていると、いつかどこかで全ての点がつながり、「そういうことだったのか!」と全てがバババッとつながる瞬間があります。
若いうちに学びとちゃんと向き合っていた人でも、社会人になってもそのまま学び続けていられる人は、そんなに多くはありません。
資格勉強の話をしているのではないのです。念のため。
そもそも若いうちにちゃんと学んでいた人というのは稀ですから、全体で見ると「若いうちも学び、大人になってからも学び続けている人」というのは超希少人材です。
でも、たとえ若いうちにきちんと勉強をしてこなかった人でも、大人になってから学び続けることで、あっという間に逆転します。
学生時代の勉強というのは高々数年の話ですが、大人の学びは一生です。
5教科7科目ではなく、1万科目の中から学び放題なのが大人の勉強です。
抽象論はそのままでいい、具体論に落とす経験は後からついてくる
学問として社会を見つめていると、どうしても抽象論になってしまうのはしょうがないことです。
特に社会系の科目というのは、帰納的に考えられているケースが多いです。
帰納的というのは「具体→抽象」の考え方です。
個々別々の存在から共通点を導き出すのが帰納法の考え方なので、社会を見て個別の事象の共通項をまとめ上げて、こういう法則があるよね、と論じるのでどうしても抽象的になってしまうのです。
反対の考え方が「演繹(えんえき)」というものですが、これは抽象的な法則から具体化させるということです。「抽象→具体」ですね。
具体化させる経験というのは、そもそも抽象論をたくさん持っている人の方が圧倒的に質が高いので、若い時代に周りのおじさんたちに「具体的ではない」と揶揄されながらも抽象論をたくさん学んだ人は、それからの社会の中でひとつひとつの具体論を手に入れていく(演繹化する)質の高い経験ができるはずです。
大事なことはもちろん具体と抽象の両方を学び・実践し続けることなのですから、これから何十年と続く楽しい社会の中で、学び続けてありたいものですね。
「蓄積資産」を意識した働き方を選びたい(と思う)
そもそも彼と話をしていた「エンジニア?新たな事業参画?」という話ですが、考え方として大事だなあと僕が思うのは以前の記事で書いた「需要と供給」という考え方に加えて、「蓄積資産」がどれだけ詰めるか?ということ。
これはあくまでも僕の所感なので、人によっては他の優先順位もあるはずだということですが。
例えば、エンジニアの「スキル」という観点は、蓄積資産としてはわかりやすいのです。
なんらかのプロダクトを作れるスキルだとか、できることが増えていくだとか、そういう働き方や生きる場所を選ぶことによって、自分のできることが複利的に蓄積されていく。
僕がこうしてブログを書いていることも、エンジニアが定期的に自分で何かアプリやサービスを開発することも、作ったものが財産(資産)として残っていきます。
となると、その財産(資産)は何十年と積み上がっていくわけで、例えばそれが次の仕事につながったり、あるいは価値や信用になって結果としてお金に変わったりするわけですよね。
(ひとつの記事よりも、1,000の記事の方が信用になったり大きな価値になるよね、という話。わかりやすく言うとね)
あとは「人」。これは大きい。
例えば友人の彼は地元の大学から東京の大学院に進学をして、一緒に何かをしたいと思える良き仲間(というか先生というかメンターというか)に出会っているわけです。
東京で2年過ごして、そういう「無条件で自分のことを応援してくれる人」に1人でも出会えたのであれば、それもまた自分の人生の財産だと僕は思うのです。変な意味じゃないよ。
世の中には、地方から東京へ「一旗上げるため」に上京する人は多いのですが、1年経っても2年経っても、「個人」としての自分や、自分が作ったサービスを応援してくれる人ができていないのであれば、それは単に時間を「消費」してしまっているんじゃないの?と。厳しい表現でごめんと思う。
でも、何かを成し遂げたいと思ってそれを形にするということは、そういうことなんじゃないかな?と思うのですが、いかがでしょうか。
自分の人生の大事な時間を「消費」する(搾取される)のか、それともコツコツとでも何かを積み上げて資産にするのか、というのは大きな差になるのだとと思う。
どちらが正とかじゃないよ、あくまでもそういう考え方もあるよね、という話。
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世の中は大多数が政治派。世の中を眺められるポジションでいたい
これは雑談だけれど、例えば僕の地元には多数のコミュニティが存在している。
その友人はITエンジニアとして仕事をするわけだけれど、ITエンジニアの領域でも複数のコミュニティが存在していて、それらは割と対立(っぽい)感じも否めない。
ポリティカルという意味ではなく、社会の大多数には「政治」という概念が浸透しきっていて、「俺はこちら派」とか「あっちはダメだ」とか、そういうことね。
人間というのはそういう生き物なんだと思う。歴史を見ていてもそうじゃん。
じゃあ、全く違う目的のもとで複数のコミュニティを統合したり、共通の目的のもとでの仲間にしたりすればいいじゃないか、というのはその通りなのだけれど、実際はそう上手くはいかないのが人間の性だよね。
漫画「キングダム」でも中華統一があれほど難しいものだと描かれているのも、同じ理由だと思う。
要は人間というのは「この目的で仲間になった方がいい」と頭ではわかっていても、感情的に「NO!!」と思う人たちが多いのだということ。
言い出しっぺが自分ではなく他の人なのであれば、その船には乗らない。
と思う人たちが多いから、派閥も政治も紛争も世界からなくならないのだ。不思議なものですね。
とまあなんだかんだ思いつつも、僕自身はそういう世の中の構図を眺めていられる立場でありたいなとは思う。興味深いしね。
そのためには僕の友人たち、仲間たちに頑張っていただくとして。。。僕は僕の役割をちゃんと果たします!
いつも僕のブログを読んでくれている同世代の人たち、いつもありがとう。
いつか「あの時があったから、今がある」と語れる未来を作ろうな。
これからも、よろしく。
noteも書いています。