仕事のモチベーションが成長にある人、そうでない人
成長意欲が高い。
目標達成に向けて努力をすることができる。
いろんな情報をよく勉強している。
仕事柄でしょうか、僕は周りの人たちからよく、そういった言葉を言われます。
周りの人たちの目には、そういう風に映っているのかもしれません。
でも、僕のモチベーションは「成長」とか「目標達成」とか「いろんな情報を」とか、そういうところには一切ないのです。
オブラートに包んでいうと、僕は成長欲求なんていうものに1ミリも興味がないのです。
でも、周りの人たちの目には、そういう風に映っている。
これは、僕自身がそういう土俵に立っているから。ただ、それだけの話なのです。
僕のことをよく知っている人にとっては、僕のモチベーションが「知的好奇心」にのみあるのだということは、当たり前の事実のはずです。
今日、面白いことがありました。
僕自身の強み/弱みってなんだっけ、と会社の中で話す機会があって、ある人は僕のことを「興味の幅が限定的だから、もっといろんな人と話をしたほうがいい」というわけです。
そうではないのです。僕は興味の幅が限定的だから、特定の人と多くコミュニケーションを取るのではない。
社内外で僕のことをちゃんとわかってくれている人は、僕が人に対して無関心であるわけでも、特定のものにしか興味がないわけではないということは、十分に理解してくれています。
僕の強みでもあり、もしかすると他の人の目には僕の弱みに映っているかもしれないところに、「時間の有限性」を感じて生きているということがあります。
僕の原体験からくるものですが、僕の人生の中での優先順位は常にはっきりとしていて、それ以外の(言葉を選ばずにいうと)どうでも良いものに関わるのは、すごく時間が勿体無く感じてしまう。
だから、一見すると感情が見えづらかったりするらしいのです。が、実際はそんなこともない。
僕の親しい先輩が、他の人に対して「ゆってぃくんに興味を持たれるようになったらいいんじゃないですか。笑」と言ってくれていたのを思い出しました。
自分なりの世界の理解をしたい
僕が仕事をする理由に「承認欲求」とか「出世思考」などという考えは一切ありません。
もちろん生活のためという前提はありますが、本質的に僕が働く理由というのは「自分のことを知りたいから」という、ただ1つの理由に尽きます。
知的探究心はよく、成長思考と間違えられます。
が、実際は全くの別物です。真逆と言ってもいい。ベクトルの向きが真逆なのです。
仕事など物事のモチベーションが「成長」というものにある人は、それはそれでいいのです。意欲的に取り組むこともできるでしょう。
でも、どこかで燃え尽きてしまうのもまた、こういう人なのです。
プライドの高い落ちこぼれの先輩はみな、「成長が」などと言っています。
が、本当に「成長」を目的にしているならば、誰に何を言われようとも、自然と為すべきことを為すのです。
「成長思考」の人たちの多くは、実は単にプライドが高く、承認欲求が内向きであることがほとんどです。
例えば、社内の評価そのものが生きる意味になっている、みたいな。
成長思考を語る時点で、実は結構脆いのです。
一方で、理由が別のところにある人は、強い。折れません。
知的好奇心は、枯れないのです。
そして結果的に、何か一つを追い求め続けられる人が、成し遂げるのだということは、過去の先輩たちを見ていればわかることでしょう?
世の中の理(ことわり)を知りたいのです。
ひいては、自分という存在についてが知りたい。
僕の源泉です。