知恵を絞る幅を広げるために「教養」を磨く

日々徒然

ひとつ前の記事で、「(仮称)教育メディア」を作るということを書きました。
いま、僕以外に6名の知人が、一緒に記事を書いてくれるということで、まずは7名から記事を書くことをスタート。

全員が1週間に1つの記事を書けば(まあ、理想ですが)毎日更新されるメディアになる!笑
まあ、更新頻度は緩やかに、気が向くままにそれぞれが書く場になったら良いなと思っています。

改めて「子育て論」というカテゴリに以前書いた記事たちを見直していて、改めて学ぶことの大事さ、楽しさを感じています。

大人になって改めて思うことは、「知恵」と「教養」に対する無限大の価値。

ビジネスフィールドで求められる最も大切なことは、関わる人たちの「納得感」であるということに疑いの余地はありません。

「正解」がなく、かつどの選択肢も正解になりうる不確定さがあるが故に、結局最後に求められるのは「納得感」以外の何物でもないわけです。

仮に何か新しいことに挑戦をして、失敗をしたとする。
(本当は「成功」も「失敗」もないのだけれど、便宜的に失敗したと仮定する)

その挑戦が失敗に終わったとしても、究極のところ、関わる人たちにとっての理由づけができ納得感を持つことができるのだとしたら、その挑戦は成功だったのではないか、ということです。

1つ1つの事象に対する納得感を醸成するには、やっぱり知恵を絞らないといけない。

知恵というのは「情報」の掛け算のことです。
単なる情報そのものは知識ですが、知識と知識の掛け算、情報と情報の掛け算こそが「知恵」になる。

最初はその掛け算が1つでも、1年後には5個になっているかもしれない。

そのために人は学ぶのだと思うのです。

知恵を絞る幅を広げるために教養を磨く

あなたにも何か1つ、得意なことがあるでしょう。

「得意」とは、他の人が頑張ってもできないことを、努力せずにできるものをいいます。
あるいは、頑張らなくとも無意識にやっちゃっていることを指します。

その領域であれば、あなたは自分なりの「もっとこうしたらいいのに」とか、表に出ないコツのようなものを知っているかもしれない。

「知っている」というよりは、その分野に対しての「知恵」があるのだと思います。
それこそが、単に知識や情報だけではない、深みになる。

誰しも1つくらいは、知識を知恵に昇華できる領域を持っている。

その領域を、1つ、また1つと広げていくために教養を磨くのだと僕は思うのです。

教養とは何か。それは、自分にとって専門外の領域であっても、その道の専門家と対等に語り合うことができること。

いわゆる「T字型」じゃないけれど、1つの突出した領域を広げていくために必要なことこそがまさに教養なのだと思うのです。

ある事象に対して、別の角度の視点を持つことができたり、専門外の領域であっても何を言っているのかという全体感を知ることができるのは、まさしく教養の力だと僕は思うのです。

現代は空前絶後の教養ブーム

ちょっと書店に足を運んでみると、現代はまさしく空前絶後の「教養」ブームです。

どこもかしこも「教養としての〇〇」というような本で溢れている。

ブームになるということは、それまで本を読まなかった人たちが書籍を手に取るということですから、本を読まない人たちに教養を磨くきっかけを与えるという意味では、各出版社の戦略も正しいのかもしれない。

一方でもう少し重めのというか、本格的な教養を身につけるためには?と考える人も多いと思う。
僕自身はどちらかというと、その間に今生きている。(と思っている)

本当にきちんと教養を身につけるためには、1つ1つの領域でちゃんとした体験を身につけるべきだと僕は思う。

例えば、今までおそらくは多くの人が避けてきたであろう「小説を読み込む」とか、芸術をちゃんと学ぶという類のことも含まれる。

ビジネス書ばかりを読み、本を読んだ気になっているビジネスパーソンにこそ、小説を通してたくさんの物語に触れてほしい。

それもできれば、簡易な書店賞ではなく、文学と呼ばれる国内外の代表的な作品をどっしりと読んでみてほしい。

人間の気持ちを慮るということがどういうことなのか。
今の社会に行き着く流れがどういうことだったのか。

物語も小説も確かに直接的にはビジネスに役に立たないように見えるかもしれない。
けれど、最終的に行き着く先は「人の感情」でしかないわけで、物語をくぐり抜けた経験があるかないかでは、人としての厚みは大きく開くと僕は思う。

芸術を学ぶということも同様で、価値観や美しさの正解を知るという意味でとても有用だと思うのです。

僕はとりわけ音楽が好きで、クラシック音楽にもたくさん触れたし、60年代以降の洋楽なども好きで10代の頃からどっぷりと浸かっていたのだけれど、後になってその経験がまさしく「美しいとはこういうものだ」という正解の基準になった。

天才とは、天才に認められた人のことを言う。
と言う言葉にある通り、数百年単位で良いものだと受け継がれているものには、それだけの理由があるのです。

その理由を細かく知らずとも、そこに時代の正解があるという事実を受け入れることから始まるのだと思うのです。

そうやって1つずつの領域を、1年単位、場合によっては数年単位で学んでいくことこそ、大人の勉強の楽しみではないでしょうか。

毎年、1つずつ詳しい領域が増えていくという、これ以上ない贅沢を味わいたいものですね。

本物の教養を磨きたければ、急がば回れ。