理由は僕です。

2019年1月6日日々徒然

今いる人を手放さなければ、そして今いる場所を手放さなければ、次の場所にはいけないんだと、僕の心が訴えています。

思い返せば、僕の今までの人生は、特に大学時代は、そうだった。

時間を共有したことに、心から感謝しつつ、その出会いの想い出は心の箱の中にしまって、次の場所へと歩き出さなければならないんだと。

何を大切にして、生きるのか、ということ。

生かされていると言う感覚は、すごく持っている。

今、この瞬間に、ものすごく感謝していることは事実。

与えられたこの命を、何のために使うのか。何のために燃やして生きるのか。

それを志と呼ぶならば、僕は大志を抱いた人間なのかもしれない。

本当だろうか?

一方で僕は、人に興味がない。誰かのために生きるとか、社会を良くするためにこの命を使うとか、そんなことを思ったことは一度もなくて。

より良い社会のためにいきたい。その想いはわかるし、僕の中にその想いがゼロなわけではもちろんない。

ないのだけれども、それでも僕は誰かのため、何かのためという大義に基づいて人生を決断することはないし、

僕自身のやるべきことを淡々とやって僕を生きたその先に、それが誰かのため、何かのため、社会のためになっているなら、その生き方をしたいなと僕は思っています。

結局、僕は最も僕自身に興味のベクトルが向いていて、自分の探究心に生きたいのだと。

少なくとも今の僕は、そう思っていて。

偉大な先輩方が言っている言葉の意味が、今は本当にわからないのだけれど、いつかわかる日が来るのだろうか。

否、わかった上で、自分の生き方を選択し、決断するという瞬間が来るのだろうか。

と言うことを最近、悶々と考えています。

「本を書いて生きていきます」ということしか今の僕にはなくて、僕は来年から社会人として、企業人として生きていくことを選択したのですが、

「なんでその会社に決めたの?」とか「その会社に行って何がしたいの?」と言われても、正直ないんですね、明確に言語化できた理由なんて。

むしろ、わからないからその会社に行く決断をしたわけで、僕は、こういうことができるからとか、自分の3年後5年後が見える社会には、行きたくない。本当に興味がなくなってしまうから、しょうがないんですね。

社会を良くしたいと思わないのか?とか言われても、興味がないんだからしょうがない。触れてみたけれど興味が持てなかったことに対して「興味を持て!」と言われても、それはないでしょう、というのが僕の思うこと。

その会社に決めた理由。なるほど。

人材業界であったこと、そしてその中でもより影響力を持ってビジネスができるという意味で大手を選んだ。

というのは、どちらかというと後付けの理由で、本当は直感です、としか言いようがない。

将来、10年後、15年後から本を書いて発信者として生きていくということを決めたからこそ、その生き方に対して最も近道になるんだろうと。理由は、直感でしかない。いま僕は、そこでしか見えない景色を見るという経験をしたほうがいいと、僕自身がそう思っているから、ということです。

理由は、僕です。

ということ。

僕はドライな人間なんだろうか。

そんなことを考えながら、日々を過ごしています。

僕は僕として、生きていきたいなぁ。