原動力は”知的探究心”であって成長志向などではない

思うこと

世の中の理(ことわり)を知りたいのです。
ひいては、自分という存在についてが知りたい。

以前の記事の中で僕が書いた言葉です。

ちょうどつい先日、会社の先輩を通してビジネスフィールドの「語る会」に参加させてもらう機会がありました。
ちょうど30代半ば〜40代くらいの人たちが大半で、自分自身で会社や事業をやっている素敵な人たちの会でした。

その中で「自分個人のビジョン・ミッション・バリュー」について語るという会話があり、そういえば僕個人ではなかなか明確に考えたことがなかったなと思いながら、会のメンバーが語っているのを聞いていました。

多くの人は承認欲求ファーストで生きている

僕の会社にいる多くの人たちは、世の中一般的にいう「ちょっと意識高い系」の人たちが多いように見えます。
自分自身の生き方や在り方、仕事の仕方を「社内の承認欲求」に求めている人たちが多い、ということです。

もちろんそれなりの会社に入ってくる人たちなので馬鹿ではありませんが、どちらかというと人間的に浅いように見えてしまう点も否めません。

僕の会社ですらそうなのですから、世の中全体で見渡した時には、個人として成し遂げたいミッションや、目指すべきビジョンなんてものを明確に持っている人はほぼいないのだろうと思うのです。

やりたいことがなく、自分で自分を肯定できないわけですから、そりゃあ外に承認欲求を求めますよねと。しかも自分の所属するコミュニティに承認欲求の対象を置いているわけですから、、

「成長したい」とほざくのは就活生までにした方が良い。
社会人になってもまだ「成長が」とか言っている人の成長のレベルって・・w

誰もあなたの成長なんて興味がないし、成長を目的にしている人の多くはたいしたことないですから、気をつけようね。

 

僕自身は、それこそ対企業のビジョンミッションバリューを議論する仕事もいくつか行ってきたので「法人格でも存在する意味を考える」ことの大事さは分かっているつもりです。
10年続いた会社には10年分の、100年続いた会社には100年分の、世の中に求められ存在し続けた理由があるからです。

一方で、最近世の中でやれ「理念経営だ」と言われているチープさは、また違う話なのではないかとも思っています。

よく、会社の中で「あなたが成し遂げたいことは?」みたいな薄い会話をしている人たちを見かけますが、なぜ、会社員でどっぷり浸かっている人に向けて、自分自身が成し遂げたいことを話さなければならないのか?

10年も20年もサラリーマンをしている人たちに、「やりたいことを応援するよ」と言われても正直冗談でしょ?って思っていました。笑
(これは僕が新入社員時代から思っていたこと。最近は全く気にならなくなりましたが)

感覚的には、小中高の学校教師に「人生の生き方」とかを話されている感覚です。
いやいや、僕は彼らに「人生の生き方を教えられなければならない立場なのか?」と本気で悩んでいた10代がありましたね。

僕が先日参加した語る会にいた先輩たちは、皆自分自身でちゃんと外の世界に飛び出して戦っている人たちだったので、すごくいいなと思った。
変に意識の高い大企業に勤めている人たちの何倍も説得力のある、地に足ついた言葉で語っているのが印象的でした。

若い世代は群像の感覚があるか否か

まだ27歳の僕が「若い世代が」と書くのは少々気が引けますが、やっぱり10代、20代の人たちに圧倒的に足りないのは「世の中と自分自身の重なり」の感覚です。

自分が「これをやりたい!」という、やりたいことがある人(いわゆる「to do型」)は1割もいませんから、多くの人は「こうなりたい(ありたい)」という状態目標を未来に据えて、逆算して今を考えるわけです。

いわゆる「to be型」といわれたりもしますが、「こうなりたい」という状態には必ず周囲の環境要因が大きく左右します。自分が社会の中で「こういう状態でありたい」という状態であるためには、世の中や周囲との相対的な関係が重要になってくるからです。

そしてその人自身の「こうなりたい」を実現するためには、社会との相対比較の中で「どんな役割を担えるのか」「人とどう関わるのか」「何が求められているのか」といった群像の感覚を磨かないと、結局独りよがりの世界で終わってしまうと思うのです。

これは明確に「これをやりたい!」という1点突破の才能を持っている人の場合は、周りとの関係性を突き破って世に出ていく人もいます。
才能や芸術、あるいは経営者など、我が道をいく才能を持っている人をイメージしてもらえるとわかりやすい。

群像の感覚とは、大衆の中に自分自身を重ねる能力のこと。
共感能力でもあるし、マーケット感覚でもあると思う。

ようは相対的に自分の立ち位置をクリアにする視点を持とうよ、ということです。

別に難しい話をしているわけではなく、たくさん本や映画を見たり、人と関わって想像力を磨いたり、自分が所属するコミュニティの人間相関図を想像したりと、そういう日々の意識で変わるものだと思うのですが、いかがでしょうか。

時間の有限性

最後に少し僕の話を。

僕自身は幼少期からだいぶ冷めた感覚を持って生きていたと思いますが、それに決定打を下したのが10代後半での闘病生活です。

死生観を揺さぶられる体験を持っている人は必ず、自分自身の生きる意味とか、人生をどう終えるのかとか、何を成し遂げて死ぬのかということを考えた経験があります。

命の有限性を感じた人は皆一様に、人生の時間の使い方を考えさせられるのです。

日々の生活ではのんびり生きていたとしても、限界体験をしたことがある人は、人生の節目節目では必ず勝負を決めます。
のほほんと生きている人と対峙した時に必ず「ああ、のんびり生きてきたんだな」ということが本能的にわかるのです。

別に人間として上とか下とかの話をしているわけではありません。
ただ、人間には2通りの人がいるということを知っているだけです。

2通りの人とは、命の有限性を猛烈に感じたことがある人と、そうでない人のことです。
時間は命の断片だと言いますが、その言葉の意味を感じたことがあるかないか、ということです。

ちゃんと自分の有限な時間を大切にして、大切な人たちと過ごしたいものですね。

 

今回はちょっとまとまらない内容になってしまいましたが、久しぶりに改めて考えるきっかけがあったので書いてみました。

いつも読んでくださって、ありがとう。