哲学の道をゆく若き日の時代
昨日の投稿に対して、早速メールをくださった大学生のあなた。連絡ありがとう!
僕自身、あなたが書いてくれた村上春樹の物語を初めて手に取ったのが確か中学生の頃。
あれから10年以上の時間が経ちますが、僕に大学時代の生き様と、「社会(のシステム)と個人の対比」を通して圧倒的な個の生き方を追求するという世界観を持つことができたのは、村上春樹の物語があったからです。
(だから今も僕は、一人暮らしをして毎週末パスタを茹で、自分の1週間分のワイシャツに丁寧にアイロンをかけるのです。ちゃんと自分個人として歩いている実感を大切にしているのです。)
古今東西の偉人たちの思想に触れることが楽しくてしょうがなかった10代の頃。
ちょうどその頃に「哲学」という概念に出会い、色々な哲学者の本を読んだのも10代後半からから大学時代にかけて、でしょうか。
その頃に触れた思想や概念や言葉というのは、今の僕を作る思考の基礎になっており、今となっては誰が・どんな説を提唱したのかは覚えていないものも多いのですが、間違いなくそれらは僕のベースとなっています。
ニーチェの本を特に大学時代に読み漁った記憶はありますが、今また、哲学の道を歩み直そうとしていたり。
ちょうど去年、購入した「哲学用語図鑑」という素晴らしい本を読み返しているのですが、読めば読むほど、大学時代までにランダムに自分の中に取り込んで行った色々な思想や哲学が、体系立って整理されていく面白さを感じることができます。
大学生のように時間と鬱憤が有り余っている時代には、もしかするとこういうまとまったいい本よりも、色々な分厚い哲学書と思考格闘技を広げる方が有意義なのかもしれませんが、教養としての哲学を広く整理したいと思った時にはいつか、手に取ってみてください。
人生の岐路にたった時、磨いてきた哲学が支えてくれる
教養としての哲学というのは、1つ「学問として」学ぶこと、それこそ本を読んだり文献を学んだりすることも良いのですが、それと同時に、日常的に身の回りに溢れている現象から「人間とは」「生きるとは」「存在とは」というようなことに、色々思考を巡らせて見ることもまた、1つの在り方なのだと僕は思います。
哲学的に生きることは必ずしも、今すぐ役に立つとは限りませんが、社会に出てある程度の時間と経験を重ねた時に、人生の基盤になっていると気づかされるもの。それこそが「思想」であり「哲学」です。自分なりのフィロソフィーを持つということは、それだけ重要なことだと思います。
自分自身の哲学があるか無いかは、何かを意思決定するときに、大きく関わってきます。
人生の進路や一大イベントのみならず、仕事の仕方や日常にある小さな出来事に対して、選択をしなければならない局面というのは多々あります。
その時に、少なくとも自分で自分の意思決定のポイント、ようは大事にしている哲学をきちんと持ち得ていないと、他の人の決定にただ、従うだけの人生を選択してしまいます。
一度、その楽な人生を選択してしまうと、もう後には戻れません。
誰かの決めた人生を、誰かの承認を求めて生きる方に行ってしまう。これ以上楽なことはありませんから。
若き日は、哲学の道をゆくのも良いだと思うのです。今すぐには役に立たず、周りを見渡せば「今すぐ役に立つ」ような手軽なイロイロを手にしている人が輝かしく見える時もあるかもしれません。
でも、そんなチープなものをいくつ手にしていても、大事な局面で自分自身の重しになってはくれないのです。支えてくれるのは、時間をかけて丁寧に育んだ自分自身の意思なのですから。
いつも読んでくださって、ありがとう。