効率よく生きることの意味を考える

2020年5月11日日々徒然

時々、効率的に人生を生きることを求めた10代の頃を思い出す。

「効率的に人生を生きる」とは例えば、大学受験に直接関係のない科目(体育や美術、音楽など)はいわば「労力を割かない科目」であり、それらを真面目に学ぶこともほとんどなければ、学ぼうとする姿勢すら見せたことはなかったように思う。

僕のいた中学や高校のクラスメイトたちも同様に考えていた人が多かったような気がする。
「体育は体を動かしてストレスを発散する時間」だとか「音楽は自習の時間」だとか「美術は息抜きの時間」というように、目的を定める生徒はマシな方だったような気もしないでもない。

主要5科目にきちっと取り組み、効率よく大学受験を迎えてできる限り偏差値の高い大学を目指す。

僕がいた10代の頃の社会は、その価値観が”当たり前”の狭い社会だった。

主要5科目では差がつかない社会を早く知ろう

時を経て、社会に出て数年が経った今になって思うことが2つある。

あの頃の「人生の第一目的をブラさない」という生き方は、それはそれで大切なことだという学びを得たこと。
うまく生きている人たちの共通点というのは「人生で最も大事なことを見失わない」ということだと僕は感じているので、あの頃過ごした社会というのはその縮図だったように思える。

もう1つ思うことは、そうこう言っても、主要5科目以外の科目、直接的に大学入試に関係しない学びや経験というのは、後になればなるほど効いてくるという、一見すると矛盾する考え。

以前に「教養(リベラルアーツ)は人生の後になるほど効いてくる」と教えてくれ大学時代の恩師の話を書いたことがある。

仕事をして痛感する、大学時代の恩師が教えてくれた「教養こそ、後から効いてくる。その意味は、いずれわかる」の意味

「その意味は、後からわかる」という言葉の意味が、今となってはわかるような気がするのです。

主要5科目の勉強は、やっぱり大事だと思う。そこをきちっとやっているか否かで、ビジネスにおけるベースは変わってくるなと思う一方で、受験勉強はどこまで行っても模範解答がある世界の話。
それ以外の「人間的なふくよかさ」みたいなものは、例えば美術であったり、音楽であったり、打ち込んだ趣味であったり、受験には使わなかった世界史や倫理・哲学の学びであったり、古典であったりするわけで。

模範解答がある主要5科目ではやっぱり差がつかない世界になると、何がその人の「人間的な魅力」になるかといえば、それ以外の何に時間を割いてきたかとか、何を自分の中に取り込んできたのか、ということ以外には語り得ないのだと。ひしひしと感じるようになってきたのです。

真面目は美徳ではないが、人生の寄り道は魅力だと思う

学校優等生の人の限界の理由は「思考停止」にあると思っていて。

「なんだかんだと優秀な人」と言われる人に限って、自分の頭では考えない(=回答を外に求める)という意味では優秀なのかもしれない。
が、やっぱりコモディティ(=代替が利く)ので面白味もない。僕の偏見ですが・・

日本人が大好きな「真面目」は、美徳でもないし、目的でもないと僕は思っているのだけれど、そうではない「真面目こそ大事」みたいな思考回路の人を社会でもたくさん見てしまったので、複雑な気持ちになっている。

例えば、ここでは企業勤めの人も一定数いると思うので、サラリーマンに置き換えて考えてみよう。

例えば、あなたの会社の営業マンを思い浮かべてほしい。
営業マンは、基本的に「毎月の売り上げ目標」というものを課されているわけだが、月末になって「今月の売り上げ目標には、達成できそうにない、、」とわかったとする。(実際によくある話だけれど)

その時に、思考停止型の組織や人というのは(でも、実際にたくさんいるけれど)「売り上げ目標に到達しないのだから、せめて、訪問くらいはたくさん行っている姿勢を見せることが大事」という思考プロセスになるらしい。
その結果、「(無意味だとわかっている)訪問数を引き上げる努力」に注力してしまい、その人の営業成績は今月も来月もパッとしない。

これは実はその人だけがイケてないわけではなく、それをよしとしてしまう組織や、むしろ「売り上げ目標に行かないんだから、せめて訪問・商談くらいは人一倍しろよ」という昔の体育会系のような発想をして煽り立てる組織側に問題があると僕は思うのだけれど、いかがだろうか。

何も改善していない、ようは「思考の放棄」なのだと思うのだけれど、いかがだろうか。

 

部活の話だとわかりやすいかな?

例えば、「試合に負けたらグラウンド10周」とやっている思考停止なコーチも多いだろう。
「試合に負けた」という事実と、グラウンド10周は、実は関係がない。感情論の問題だとお分かりいただけるだろうか?

微妙に違うのは「試合に負けたのは、運動量が足りなかったからだ。我がチームは、戦術でここをカバーし、運動量でカバーするべきポイントはここだと考える。よって、運動量をつけるためにランニング強化をしよう」なら、まだ話はわかる。

 

話は戻るが、10代の頃に例えば美術や音楽や、受験に関係がない歴史や哲学や、趣味に没頭していた人や、いろんな経験を積んでいる人というのは、概して30代以降で魅力的になってくる。

なぜか。

それは、20代までの人生の寄り道が、人としての幅を作り、それが魅力になっているからだと思う。

僕は幸いにも、10代の後半に約4年間ものモラトリアムの期間があって、そこで受験勉強とは一切関係のない映画や読書や音楽といった趣味の勉強の時間があった。
それが継続して大学時代、社会人時代と繋がっていて、人としての幅がどれだけできたのかは話かならないけれど、それらの積み重ねが今の僕の肥しを作ってくれているのは間違いない思う。

大学時代に「リベラルアーツの大切さ」をきちんと伝えてくれた先生には、感謝しかない。

 

効率よく生きるというのは、簡単なように見えて、意外と難しいものなのか。

人生の第一志望をブラさずに持ち続けられることは大事だと思うし、優先順位を間違えないということも大事だと思う。ある意味それが「効率的な人生を歩む」という目的に対する最も合理的な選択のような気もしないでもない。

でも、それだけというのも味気ない。どれだけ回り道をしたかとか、人生の迷路を塗り潰したのかとか、今すぐは役立たないことだけれど、人生の後の方ではそっちの方が効いてくるような気がしてやまない。

理想は両方・・でしょうか?人生の時間は有限ですが。

僕の感想です。いつも読んでくださって、ありがとう。

 

<追伸>

山口周さんと水野学さんの対談本『世界観をつくる』という本がよかったのでオススメします。

「役に立つ」を突き詰めてきた日本社会の結果が今。
そうではなくて「意味がある」を考える時代に来ているのではないか。