孤独な時間は人間の肥やしになる

思うこと

僕の大学時代からの友人で、等身大にまっすぐに、自分自身に向き合っている人がいます。

僕がその友人の何がすごいかと思うって、誰かから聞いた「こうらしいよ」という二次情報ではなくて、自分の見たもの触れたもの出会ったこと。
一次情報からきちんと物事を考えたり、判断したりできるというところが、現代という情報化社会に生きる人の中では圧倒的にすごいなあと思わされるのです。

現代に生きる人は多かれ少なかれ、何かしらの情報(しかも加工情報)をもとに、自分自身の思考が形成されている人が多いのです。
要は「自分で考えたこと」ではなく「誰かが考えたこと」をさも自分が思考したことのように思ってしまう。要は錯覚によって生きている人がほとんどだと思うのです。

日本に生きる僕らって、例えば47都道府県すべての街に行ったことがあるのか?と言われると、そんな人はほとんどいないわけです。
にも関わらず、僕らは「日本」という国の形を知っているし、47都道府県の名前を全て挙げることができる(はず?)。

それって、すごくないですか?

多くの人は、知らず識らずのうちに誰かが発した何かしらの「情報」を持って、自分の思考を形成しているということなのです。

内省力は現代を生きる上で大事なポイント

情報というのは「常に報(むく)いる」と書きます。
ようは「誰かが」「何かの意図を持って」発信するのが情報だということです。

テレビも新聞も雑誌も、そしてインターネットもSNSも、誰かが何かしらの意図を持って発信した情報に過ぎなくて、それらは全てが二次情報であるということ。

情報化社会と言われる便利な現代ですが、その全ては実は「知った気になっている」世界であふれているのです。

内省力という言葉があります。

自分自身の内側に向き合って、物事を考える思考性のことですが、内省力というのはこれからの時代、すごく大事なんだろうなと。
何故ならば、何度もいうように多くの人々が二次情報の世界に生きているから。

自分が実際に見たもの触れたものをもとに、自分の中に材料を取り込んでいく。
そして一人の時間を持って、内省をする。

自分の人生や社会を「内側を省みる」ということを通して、見つめてみるのです。

そうすることで、昨日とは違う自分の要素に出会ったり、「あ、そうだ、私ってこういう一面があったんだ」と気付かされたりするのだと思うのです。

そして現代だからこそ、一次情報こそが大切になってくる。逆説的ですが、情報化社会によって「実体験」の価値が大きくなっているのだと僕は思う。

僕の書いている文章というのは、「こうらしいよ」というものではなくて「僕はこう思った」「こんなことを考えた」「こういうことに出会った」というものであるし、だからこそ読んでくれる人たちがいる。

この場所に書かれていることが「こうだと聞いた」とか「そうらしいよ」という情報ならば、誰も読んではくれません。

内省をするために必要なのは「孤独な時間」

いまはスマホ一台があれば世界中と繋がっていられるという便利な時代。
そして僕たちは、その便利な時代に慣れ過ぎてしまったのかもしれません。

僕自身、ほとんと24時間に近い状態でオンラインですし、SNSなんていうのは即レスです。(実際に僕を知っている人はご存知だと思います)

だけれども、やっぱり1日30分でもいいから、誰とも会わない時間を確保しなければ、自分自身の成長というのはできない。
会わないというのは物理的に会わないということもそうですし、スマホを手放してみるという時間も必要でしょう。

人は、孤独な時間に成長する。

何故ならば、人は孤独な時間にしか自分自身と向き合うことができないし、その内省こそ成長に必要不可欠なものだからです。

内省が心と思考の肥やしになる。
現代という繋がり過ぎている時代に求められているのは、誰とも繋がらない時間であり、誰とも繋がらない場所なのかもしれません。

独り暮らしの孤独は、きっと糧になる。