時間の重みと美学の生き様に憧れて

日々徒然

別に書こうと思っていたわけではないけれど、イチロー選手の引退会見の内容に少し触れようと思う。
糸井重里さんが書いている「今日のダーリン」にイチロー選手が引退をするという内容を書き綴らているのを読んだ。昨日の話。

僕の東京にいる友人が糸井重里さんのファンで、時々「今日のダーリン」を読んで僕に感想を送ってくる。

「今日の『今日のダーリン』には男のロマンが見えるよ」
といって、その友人から昨日メッセージが来たことがきっかけで、ああ、男のロマンっていいなあとか、そういうことを書きたくなっていまパソコンに向かっている。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
03月22日の「今日のダーリン」

・昨日の午後、イチロー選手のことを書こうと思っていた。
 来日の日、引退のことを質問されたイチローさんは、
 答えのなかに以下のようなことを混ぜていた。
 「才能のままに野球をやってきた45歳と、
 じぶんのようなやり方で野球をやってきた45歳は、
 同じじゃないと思う。
 だから、じぶんのような人間が45歳になったとき、
 やれるのかやれないのか、まだ誰も知らないでしょ?」
 言い方はちょっとちがうけど、そういうことを言った。

 これと関わるようなことを、直接に聞いたことがあった。
 「年齢について考えるとき、
 スポーツ選手の年齢については、あんまり考えない。
 同窓会で会うような、同い年のふつうの人が、
 どれくらい肉体が衰えたかというようなことは、
 けっこう気にしています」
 自然に進行する衰えと、それを考えに入れつつ修練し、
 別の道を考え実行していくじぶんのやり方に、
 強い自負を持っているんだと思って聞いた。
 イチローは「天然素材で創った人工物」だということだ。

 ぼくは、そうして生きてきたイチローという人に、
 尊敬の気持ちと、ちょっとだけだけれど
 可哀想かもしれないという気持ちを抱いていた。
 ストイックであるとか、求道者のようであるとか、
 人間ばなれした偉人のように語られるけれど、
 イチローさんには、この、ちょっと可哀想な感じがある。
 それは、意思というか、理想というか、イデアが
 「イチロー」という自然の人間を改造し続けてきた
 ことに原因があると思えるのだ。
 その延長線上に、「50歳の肉体を使って
 メジャーリーグ選手として活躍させること」があった。
 ぼくも、いっそその実現を見てみたかった。

 昨日の引退の表明は、「イデアで45歳の肉体を
 自由に操ることはどうやら無理だったようです」
 という失敗の報告だったと思う。
 それで、らくになっただろうなぁと、ぼくは思う。
 イチローは、元イチローになって、人間に還るのだろう。
 より自然の人間に還ったあの人に、おめでとうと言おう。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
男子って、みんな、微量のイチローを持っているんだよね。

ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」3/22より

ちょっと長いけれど、全部抜粋をさせてもらいました。

***

イチローが引退会見をした3/21から3/22にかけての深夜頃、僕はパソコンで彼の約90分に渡ってのインタビューを全て見ていた。

けれど、なんか僕は野球に格別詳しいわけでもないし、ブログに「彼の生き様から学ぶ」とか書くのはなんか変だし、翌朝にはあらゆるメディアが彼の名前を引用して、

「超一流の生き方に学ぶ、〜〜について」

というような記事が散見されたわけで。

本当にまっすぐな言葉で書かれている記事とかももちろんあったのだけれど、なんか安っぽくなるのが嫌で、自分で書こうとは思わなかった。

けれど、やっぱり糸井重里さんが優しい言葉で書き綴っているのを見て、そこに男のロマンを感じ、イチロー選手に特別詳しいわけではないけれども、書いてみようという気持ちになったのです。長くなってごめんね。

永遠の野球少年としての生き方

イチロー選手の技術的な凄さ、実績的な凄さに関して僕は定量的な感覚を持ち得ていないのだけれど、彼の生き方としての凄さはわかると思う。

引退会見で、あれだけマスコミ嫌いで有名だったイチロー選手が、マスコミ各社や記者の一つ一つの質問に対して塾考し、感情が揺れている様子が伝わるくらい丁寧に言葉を発しているのは印象的でした。

泣きそうな表情になったり、その瞬間の一つ一つを噛み締めているような、そんな感じが見ている僕らにひしひしと伝わってきて、カッコいい。

永遠の野球少年が、野球選手第一幕を終えるということは、いろんな感情があるのだろうと想像します。

 

さて、糸井重里さんが書いていたように(「男子って、みんな微量なイチローを持っているんだよね」)、
イチロー選手の生き方には男子の生き様が詰まっているように思う。そこにロマンがあるんだなあ。

ものすごいプロフェッショナルな生き方と同時に、無邪気な少年のような在り方。それこそアンビバレンスなんだと思う。

僕は前から書いていますが、社会的に偉い人(〜〜会社の役員さんとか)とかはすごいとは思うけれど、対面した時に全身で何かを感じることはないんです。
人間誰しもあるじゃないですか、動物的本能というか、対峙しただけで「あ、負けたな」っていう感覚とか、「すごいな」と思わされる感覚みたいなもの。
別に強がっているわけじゃなくて、僕は社会的にすごい人と対峙したから何かを思わされたりすることってないんです。

でも、たとえばその道何十年というような生き方をしている、継続という時間の重みとか、生き様みたいなものを見せつけられた時には「うわっ、カッコいい」とものすごく押される感覚があるんですね。

職人さんだけではなく、経営者もそうだし、作家とか、学者とか、要はそういう突き詰めていくような人たちの生き方にカッコいいと思わされる。

そういえばこの「道」という考え方は、日本独特のものなんですよね。「みち」ともいうし「どう」ともいうけれど、日本人は昔から「道化(みちか)」させ、その中に美意識や生き様を感じるという独特の美学がある。

茶道とか剣道とか、わかりやすいのはそういうもの。

今の時代にはもしかしたら即していないのかもしれないですが、僕はそういう生き方の美学みたいなものに、すごく感銘を受けると同時に、僕自身もそうでありたいなと思っています。

人生という時間軸の中で「時間の重み」を噛み締め、自分自身が打ち込めるものの中に美学を見出すというような生き様にはとても憧れる。

僕の好きな村上春樹氏が「時間を味方につける」と書いていらっしゃったけれど、その感覚をもって生きていたいと思うのです。

実際にビジネスの最前線で生きる今は、むしろあらゆる情報をより生産的に処理していくことが求められる場所ではあるのだけれど・・

アンビエントな状態を目指したいですね。今日も読んでくださって、ありがとう。