僕の中で、心に激刺さりしたブログがあったので、どうしても引用させてもらいたくて書きます。
暴力を芸術に昇華するという愛情。
というブログの中で書かれていた言葉で、
そんな人は、他人を暴力で傷つけてしまいそうな自分を恐れていて、どうにか暴力以外でその衝動を押さえ込んで生きている。
それが、例えば絵を描くことだったりする。
と。僕は、この感覚がすごくよく分かる。
なぜならば、僕の中にある、狂気ではないけれど、すごくそれに近いような”激しさ”みたいなものがあって、何かに没頭してそのエネルギーを還元しなければ、自分自身がおかしくなってしまうんじゃないか、壊れてしまうんじゃないかと思うような青春時代を過ごしていました。
そしてそれは今でも変わらない気持ちがあって、どうするかというと、僕の場合はそのエネルギーを「書くこと」に還元していました。
わたしの周りには、膨大な狂気を絵に昇華することでなんとか人間性を保っている人が何人かいる。
というフレーズが出てくるのですが、本当にその通りで、そしてこの感覚というのは、分かる人にしかわからない。否、ほとんどの人には、わからない感覚なのではないか、ということです。
僕は、書かないとおかしくなってしまう自分がいた。
内側にある激しさは、例えば自分の理想、社会への想い、生きにくい世の中へのフラストレーションと、今を生きる何者にもなれない自分への葛藤みたいなものがあって、その間で揺れるものなんですね。
特に、10代の後半から大学2年くらいまでの時期は、本当に葛藤の日々で押しつぶされそうになっていた。
もし僕は書くということがなかったら、この膨大なエネルギーだったり、あるいは性欲なんだろうか、そういった行き場のないものが渦巻いて、壊れてしまっていたんだと思っています。
書くということもそうだし、本を読み、先人と自己との対話を通して、自己の中にある深いところまで入っていくということ。
僕のエネルギーや激しさは、すべてそこに還元されていたんだなと、今となっては思うわけです。
他の人から見える僕という人間は、すごく穏やかで、感情の起伏がない人間だと思うんです。自分でもそう思っています。
「優しい」「真面目」というふうに言われる一方で、「何を考えているかわからない」とか「遊びに熱中することってないの?」というふうに言われることも多々あったし、今までの友人の中には「社会に興味がないの?」とかも言われました。
挙げ句の果てに母親には「あんたは昔からどこか冷めていた」と言われることもありました。
でも、内側の、奥の方にあるものは、ずっとずっと激しいもので、それは一つ僕自身の探究心だったり、もっともっとと上のステージを目指すエネルギーになっているのだなと。
決して冷めているわけじゃなくて、むしろ内側にあるものはもっと熱いもので、自分の中で興味がなくなったものに対しては、本当にどうでもよくなってしまう。
だからこそ一つのことを、もっともっとという気持ちで探求し続けるんだと思っています。
きっと、一見するとすごくドライな人間なんだろう。
(最近も近い人にそう言われたw)
僕はやはり探求の場、特に書くことを、これからもずっと続けていくんだと思っています。
何の探求かというと、人であり、社会であり、ビジネスであり、究極は世の中全部ということになるんだろうと。
それを書くということで、世の中に発信していく。僕の生きた証として、形にして残していく。
僕はそういう生き方をしていきたい。
ありがとう。
<追伸>
上で紹介したブログの記事を読んで、僕は本当に心が震えました。
愛情。優しさ。いろんな想いが込められた文章で。
僕も、優しく生きてありたい。ありがとう。