畢竟、よりよく生きたければ勉強し続けるしかない

日々徒然

ここ数日、ちょっとブログを触れずごめんなさい。
心配して連絡をくださった方もいました。愛されてますね。ありがとう。僕は元気です。

2〜3日空けると「何かあったのか!?」と思ってもらえる場所でありたい。笑
(冗談はさておき、noteの方も毎日書くといいながら、毎日書けなかったりもしますが、また、遊びに来てください)

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こちらにも書いたのですが、先週、平日の夜に、知人の紹介で某教育業界にいらっしゃる方と会食に行く機会がありました。

「教養」という言葉があるけれど、まさしく教養人という方で、本当に素晴らしい時間を共有させてもらいました。すごくよかった。

教養=空間軸・時間軸の知識の広がり
だと僕は思うのですが、まさにそれを体現しているような方で。圧倒的な教養の海が自身の中にあるような感覚といえば良いのでしょうか。

いろんな知識が有機的に繋がっていらして、そしてその引き出しが圧倒的に多い。

だからこそ、例えば僕(と一緒に行った先輩)のビジネスの話なんかをしたときも、全く違う分野の話のはずなのに、その立ち位置を瞬時に把握して、的確なコメントをくれるわけです。

知識の広さと深さと同時に、古今東西の偉人たちの思考の枠組みが自分の中に入っていること。その時間軸の長さこそが、教養人たる所以だなあとまざまざと感じさせられました。

人間の思考はその枠組み(スキーム)の置き方によって決まる

その先生の話で面白かったのは、思考の枠組みの話。

例えばぼくはよく、自分の立ち位置の話をします。

わかりやすい例えでいうと、就職活動をするときに、自分の就活生レベルが全国50万人のうちどこにあって、だからこういう企業群を受ける、とか。

あるいは、仕事をするときに、僕は25歳のビジネスパーソンとして、50代、60代の人たちとビジネス市場において価値発揮をしていかないといけないとした時に、どこまでの甚だしさを持ってやるのか?という自分の立ち位置の話。

僕の思考の枠組みもわりと狭くはないと思っていて、同世代のみならず、あらゆる世代の人たちを含めて日本刀社会システム全体の中で、自分の思考の枠組みを置いて物事を考えているわけです。

だからこそ、わりと自分自身のことを客観的に捉えているし、自分の人生をあくまでも俯瞰的に見ながら、当事者として生きているわけです。(と思っています)

ところが、その先生は、その広さが超グローバル。

世界という枠組みがあって、そして、そこに時間軸の概念もある。

それこそ数百年前のアジアや欧米の文化や思想、社会の仕組みという枠組みを含めて物事を捉えているので、その思考の構造性が極めて複雑なわけです。

それだけ構造的かつ複合的に物事を考えることができるというのが、教養の強さだと改めて痛感しました。本当に勉強になった。笑

また、12月にお会いさせてもらう機会があるとのことで、ああ、僕もまだまだちゃんと勉強しなきゃなという気持ちと同時に、学生時代に勉強に打ち込んでいた感覚と、もっともっと知りたい、学びたいという気持ちが溢れてきました。

以前にこんな記事を書きました。

結局、よりよく生きるためには、学び続けるしかないのだと思うのです。

教養こそが、人間の力です。

遅すぎるということはないと思っていて、今この瞬間から10年間、黙って学び続けたらきっと、その先に見える未来は変わっています。

畢竟、よりよく生きるために、勉強しよう。