自分の書いた文章で、ひとりでも嫌な気持ちになるようなものは書かない。 〜愛のある文章を書きたい〜

2019年1月4日書くということ

僕はこうしてブログを書くときもそう。何か文章を書くときは、基本的には何をどんな風に書いてもいいと思っています。

「ブログを書こう!」と意気込んで書くのではなくて、また大きなことや小さなことを考えて書くのではなくて、どんなものでもいいから気楽に、自由に、自分の思っていることを表現できる場所であったらいいなと思っています。

でも、ひとつだけ、これはどうしても意識したいなと思うことがあって、それは、僕の書いたこの文章で、誰かひとりでも嫌な気持ちになるような、そんな文章は書かないようにしたいなと。

誰かの悪口を書いてその人が読むからダメだとか、そういうことではない。

誰が読むとか読まないとかはどちらでもよくて、そもそもそんな文章は書きたくないなと思いながら、日々ブログを書いています。

自分の考えていること、感情、気持ち。それらを素直に書くことは大事だと思います。

なんらかの意見を主張することも、ブログという場所の大きな楽しみのひとつです。

でも、それによって、誰かがすごく落ち込んだり、がっかりしたり、ムカついたり、というように、嫌な感情になってしまうような文章は、書きたくないんですね。

ということを思いつつ、もしかするとこれまでに僕が書いた文章を読んで、嫌な気持ちになった人もいるかもしれない。

その人に対しては、すごく申し訳ないなと思うし、それで誰かが傷ついたのならば、そもそもどうしてブログを書いているのかもよくわからない気持ちになります。

だからこそ、こうして綴っていく言葉のひとつひとつを大切にしたい。

なんてことを考えながら、これからもブログを書きたいです。

愛のある文章を書くならば、批判をされることは気にならない

もし、誰の悪口でもなくて、秘密を暴露したとかでもなくて、自分が考えていることを素直に書いて、それでも誰かに批判をされることはあります。

時々は、僕の書いた記事がSNSで広まって、結果広がった先でわりと炎上ではないけれど、批判の対象になっていたりすることもあります。(いままでに実際何度かあった)

そういう場合は、僕は別に構わないし、ほとんど気になりません。

自分自身が嫌な気持ちになることもほとんどないし、「間違っていると思う」と言われることに関しても、まあある程度は大丈夫です。

誰かを傷つけることを書いたのではなくて、きちんと意見や考えを書いたのであれば、そしてそれが議論の対象になったり、あるいはもし誰かに批判されたとしても、それは何かを書く側の人間として背負っているものなのかなと。

自然に起こりうることだし、それなりに誰かの内側に反応するような「何か」を書いているということなのではないでしょうか。

この誰かの心に引っかかる「何か」によって議論が出ることと、誰かを傷つけたり嫌な気持ちにさせたりするのは、僕は全然違うと思っていて。

結局は、自分の中に大切なものがあるか。愛のある文章を書いているか。ということなのではないでしょうか。

自分の書いたものを大事な人に、親や家族に、恋人に、子どもに、「これは僕が書いたものなんだ」と胸を張って見せられるような、そんな文章を書きたいなと。

厳しいことを書いていても、そこに「愛」があるならば、それはきっと分かる人には分かる。

そんな愛のある文章を、書いてありたいですね。

いつも、僕のブログを読んでくださって、ありがとう。