「書く」ということで入り込む世界
僕のいま使っている手帳を見返していて、綴られていた言葉が、自分で読み返してみていいなと思ったので抜粋。
”人間的な深み”というのは、一朝一夕には身につくものではない。
それは表面的に見てパッと分かるものではないのだけれど、でもどこかそれがオーラとして、その人の全身を包んでいるものでもある。
そして、その意味では彼らには、私として一緒にいるというイメージが全く湧いてこず、その理由を言語化できるようになるまでに、自分自身かなりの時間を要したのである。
と始まった文章は、もう少し続いていて。
私自身、こうして紙とペンを用いて、自分の内側にある言葉をひとつひとつ掘り起こしていくという作業は、一見非効率のように思えて、自分自身の奥の方、深いところにある何かに触れるものであるので、こうでもしないと中々に自分の内側まで降りていくことができないものである。
この時間を日々の中で確保することはそう簡単なことではない。
なぜならば、この作業はものすごいエネルギーを要するものであり、周りの外界を意図的に遮断することが求められるからである。
と綴られていて、なるほどなと思いました。
これは、本当に僕が書いた文章なのだろうか。
自分の書いた文章を見返していると、時折、そう思える言葉に出会います。
その時、その瞬間に書いた言葉が、自分自身なのであって、今思い返す過去の自分というのは、実に曖昧なものだったりする。
だからこそ僕は、その瞬間に感じたこと、その瞬間にしか書けないものを、その時の感性で書き綴るということをしてありたいのだなと。
僕が今までノートや手帳に綴った言葉というのは、こうして僕が今書いているブログのような言葉ではなくて、もっともっと深いというか、ある意味「怖さ」を持っているものだったりします。
その時の僕自身の個々の重さが綴られていて、後から見返してみても心に刺さるものがあったりするわけです。
だからこそ、書くということは面白い。
スイッチを入れるように、容易に入り込める感覚の世界ではないし、こうして流れてくるものは書いて記しておくことをしなければ、次にいつ出逢えるかわからない、といった種のものである。
と締めくくられていました。本当にそうだなと。
自分の中の世界に入り込んでいって、奥側に触れて、そしてまた戻って来る。
その時間こそが、僕の僕である所以なのかなと思っています。
いつも、僕の世界に触れに来てくれて、ありがとう。