「成長したい」という名の思考放棄
いや、なんでこういきなり就活になると「成長したい」と言う人が続出するのでしょうか?
それまでの20年間、「成長したい」なんて思ってきたこと、ないでしょう?君たちは。
就活なんて関係なく本当に「成長したい」と思って生きてきた人たちは、チープに「成長したいんです」なんて、言わないから。笑
なぜか「成長したいんです病」の人たちは大学3年生くらいになると続出し、それは社会人になっても同じように「成長環境が」とか「成長のために」とか言ってる。
それを思考放棄と呼ぶのだと思うのですが、いかがでしょうか?
本気で成長を渇望している人は、「成長したい」なんて言わない
僕は新卒採用に関わって今年で4年目になります。
(僕は大学時代から就活生に関わってきていたので、話している就活生は数百名に及ぶと思う。もう数えきれない・・)
その中で僕はよく彼らから聞かれるわけです。
「御社はどういう教育体制で、私のことを成長させてくれますか?」と。
本当にそう言ってくる人は多い。
僕はよくそんな人たちに「〇〇さんはコンサルには向かないから、別の会社を受けた方が良いと思いますよ」と伝えます。
僕が新卒から今の事業部に所属し、一貫して対企業へコンサルティングサービスを提供してきたわけですが、20代のうちから売り上げ数千億円の大企業の部長や役員、あるいは中堅企業の経営者と対峙できる仕事というのは、そう多くはない。
もちろん簡単ではないので、どう過程を歩んでいくかを意識するのはわかる。
ただ、「何を与えてくれますか?」という思考の人には、多分この仕事は無理。
自分をどう成長させてくれますか?と言っている人に対してクライアントは依頼をしたくないと思いませんか?
僕らはプロです。例えばサッカー日本代表に初めて選ばれた選手が、日本代表ではどう成長させてくれるんですか?とは言わないでしょう?そういうことです。
ここまで伝えてその意味が分かる人と、伝わらない人の2つに分かれるわけです。
就活生全員に向けてとは言わないですが、少なくとも「コンサルに行きたい」とか「顧客の経営課題に向き合いたい」とか言っている人たちは、それなりの目線を持っていないと、顧客に対してもその人自身にとっても不幸せな結果にしかなりませんから。
そもそも「成長」とはなんなのか?
自分自身にとっての「成長」を自分なりの言葉で定義せよ。
というロジックも理解できます。が、僕でいうとちと甘い。
広義の意味での「成長」というワードはマジックワードで、その思考放棄は工夫と改善を生みませんし、そもそもの目的が曖昧なのです。
狭義の意味で「〇〇の領域で、==ができるようになることを成長と定義する」というのは、よくわかります。
ただし、その目的は何なのか?本当にそのアプローチで良いのか?は十分に考えた方が良いです。
僕の人生の目的は、人類の真理を1つでも見出したいと思っているので、人類の真理に近づくことを成長と呼ぶことはできると考えていますし、むしろ僕は自分自身を成長させたいから、あらゆる事象に向き合っていると思っています。
ただ多くの場合は、ビジネス的あるいはご自身のスキルや経験を積むという意味において「成長」という言葉を使っています。
そして社会という名の「なんでもあり」の競技においては、自分自身の成長はあくまでも手段なので、成長を目的にしていると話がズレてきてしまうのです。
例えば、Aという難しい課題があったとしましょう。あなたはその課題Aを解決したいと思っている。
課題Aを解決するための方法は色々ありますが、大きく2つに分けて、
1)あなたが成長する(=できるようになる)
2)課題Aの解決ができる人に依頼をする
であれば、どう考えてもビジネス的には「2)課題Aの解決ができる人に依頼をする」という方法をとるのです。
僕の「成長が目的は何かおかしい」と言っている理由はそこで、ビジネス的には成果を出すことが目的であるためです。
ビジネス的に求められるのは「成長できる人」ではなく「成果を出せる人」なのですから。
これを思考放棄型の人間は「できるようになるまで、自分で頑張る」という、制約条件を無視したプロセスを選択しがちです。
そんな悠長なことを言っている間に、ビジネス戦争では側から撃たれて死亡です。
リアルな戦場において「1人でも多くの人を殺せるように、成長したいんです」というのはおかしいでしょう?少々暴論ですが、本質的にはそれと同じことなのです。