自意識の過剰の最中で

書くということ

最近、たまたまだけれど初めましての人と話す中で、僕がブログを書き綴っているという話をすることが何度かあった。

僕自身の人生の中ではすでに「書くこと」についてはいわば「当たり前」になっているので、「なぜ、ブログを書くのか」と言う類の質問に対して「ブログを続けている理由」のようなものを答えなければ、自分の中での位置付けを考える機械なんていうのはほぼ無くなってしまったのだなと改めて気付かされる。

僕自身がブログを10年以上にもわたって書いているのかといえば、今となってはさほど理由はないような気がする。この文章を書きながら考えたいのだけれど、初めてブログというものを書き出した高校生(たしか16歳くらいだったと記憶している)の頃は、明らかに自己表現のツールの一種として「文章を綴る」ということが極めて大事なことだった。

僕自身は社交的ではないし、言葉で何かを言うことが得意なタイプではなかった。
だから今こうして人様に向けて話すことが仕事のような生き方をしているのは、誰よりも一番僕自身がびっくりしているのだけれど。

「書くことを通して表現したいものがあるってすごいですね」と言われて、確かに周りから見ると、そう見えるんだな!と。
実は逆なのだが、社会とつながるコミュニケーションツールとして「書く」と言うことは極めて効率が悪いし、何よりも回りくどいと思う。

ただ、当時の僕にはそれ以外の自己表現の手段がなかったのだ。

話して完結できる人は、わざわざ面倒臭い工程を経て、何かを書こうとは思わないだろう。
社交的な人は、わざわざ部屋に一人きりでパソコンに向かって文字を打ち込み続けることなんてせず、世の中に出歩いて自己表現と承認欲求を満たすことができるだろう。

けれども、僕にはそのどちらの方法も持ち合わせていなかった。
本を読んで、考えて、ふつふつと煮えたぎる自分の内側の中にある”何か”を、どう処理して良いか分からなかった。

あまりにも何者でもない自分を見つめるのがキツかった。
何者かであるはずだという根拠なき自信だけが、日に日に僕の中で大きくなっていく。

そんな自意識の過剰の最中においては、書くことを通してしか発散することができなかったのだ。書けば書くほどに溜まっていく鬱憤があるけれど、その鬱憤がまた次の「何かを書かずにはいられない」という衝動につながっていたのだと思う。

たらればさんという編集者の方が少し前に書いた記事があって、たまたま今日見返してみた。そこに書かれていたのはあまりにも痛すぎる共感だったので、僕のブログを読んでくれる方はぜひ、この記事を見てみてほしい。

舞台になっている高円寺の話をしていた時に、ふとこの記事の存在を思い出して辿ってみた。
僕のブログの冒頭にも書いた「なぜ、ブログを書くのか」という問いに対する考えを書こうと思っていた瞬間と重なって、あまりにも痛い。素晴らしい文章だと思う。

作家や編集者に必要なことって、実は文章を書く「うまさ」以上に、生きる中での価値観や感受性といった、ものを「視る」独自性なんだと思う。

たらればさんの記事の中には、学生時代に過ごした高円寺のアパートでのたらればさんのエピソードがたくさん出てくる。
こんなことを考えながら生きる大学生が、どれだけいるのだろうか。その剥き出しの感受性はどれだけ、当時のたらればさんを生き辛くしただろうか。

ああ、あまりにも素晴らしき自意識の葛藤。

たらればさんの記事を書くきっかけとなった、カツセマサヒコさんの著書『明け方の若者たち』も舞台設定は高円寺だった。
高円寺にはこういう感性の尖り切った若者たちを惹きつける何かがあるのだろうか。

僕が東京に来て半年が経つ。

仕事はおかげさまで順調(だと思う)、生活もそれなりにやっている。

まだまだ刺激物を欲しているし、東京の刺激や誘惑には抗い難い。
美味しいご飯屋さんは無限にあるからまだまだ行きたいし、デートだってしたい。
物欲はさほどないけれど気に入ったものは身につけたいと思うし、仕事もバリバリやって稼ぎたいし、金銭欲求は強くはないと思うけれどいわゆる良い生活もほしいと思う僕がいるのは事実で、俗世っぽいけれど満足するにはまだまだ足りない。

上だけ向いて、前だけ向いて歩いていけるほどの強さはないけれど、逃げ出すほどの無力感にはまだ直面していない。
道半ばも半ば、まだまだスタートラインの方がずっと近いわけなのです。

そして時々、こうして僕自身の立ち位置とか、周りとの対比をフッと考える瞬間がある。
東京に越してきてこの半年の中で、そういう時間も忘れてしまうほど飲み込まれていたような気がする。

僕にとって「書く」という意味がもしあるとするならば、1つはこの葛藤を連ねられる場所があるということなのかもしれない。

書くことが「表現の方法」というのも今は少し意味合いが違う。
自己表現を別の方法ですることを覚えたからだ。仕事が出来るようになると、仕事を通して自分自身を表現する楽しさを知る。

はたまた書くことは「社会とのコミュニケーションツール」というわけでもなくなってきた。一種の自己表現の場であることは事実だけれど、書くことに承認欲求を求めることも薄くなってきたように思う。

おそらく、おそらくだけど、僕はあと2〜3年はこの感じだと思っている。
ただ、2〜3年先にまた、もう一周回って再び「書くことの重さ」を感じる時が来るような気がしている。

僕は今28歳なのだけれど、30歳くらいまでに経験したこと感じたことを、次の人たちに向けて「残す」という意味を求められるようになるのではないかと勝手に思っているからだ。

30代の未来の僕にとってはおそらく、書くことはもっとも自己表現の方法であり、社会とつながるツールとして強固なものになっているような気がする。
それは以前のそれとは全く違う種類のものだけれど。

 

まとまらないのだけれど、土曜日の夜中に自意識と向き合う中でこのブログを綴っています。いつも読んで下さってありがとう。