ささやかな楽しみと、世の中の理不尽について考える
友人からふらっと届いたLINEに1枚の写真が貼られていた。
綺麗な空の写真だ。こういう日常のちょっとした綺麗さに気付ける感性って素敵だと思う。
そうそう、ささやかな楽しみと喜びについてだ。
僕はわりと幸せのハードルは低いほうの人間だと思っていて、
炊き立てのご飯の上に卵を落とした卵かけご飯を食べている時とか、
あったかいお風呂にゆったりと浸かって本を読む時間だとか、
知らない街の知らない駅で降りて歩いてみるだとか、
夜眠りにつく前の布団の中の時間とか。
そういう些細な瞬間が一番幸せに思えたりするし、人生わりとそういうことで満たされているのだ。
もちろん、生きていて嫌なことだってある。もちろんある。みんなだってそうだろう。
朝起きたら雨が降っていて嫌な気持ちになっただとか(僕は雨が好きだけど)、
仕事で嫌なことがあっただとか、
帰り道に変な人に絡まれただとか、
日本の政治家はなんだとか、不景気がなんだとか。
でも、そういうことって、自分でコントロールしようがない出来事だったりもする。
ようは「理不尽」な出来事なのだ。僕らは自分でどうにもできないことに苛まれて生きている。
でも、こんな時、村上春樹の物語に出てくる主人公はこう言うだろう。
やれやれ、そんなことか。人生というのは、そういうものだから、気にしたってしょうがないじゃないか。そんなことより、素敵な音楽を聴こう。
理不尽さと淡々と向き合い続ける人たちの物語が僕らを魅了する
村上春樹の物語の中で強調されるべきは、決まって主人公が世の中の「理不尽さ」の憂き目にあうことだと思う。
恋人が突然自殺したり、友人が突然理不尽なことを言い出したり、空を見上げると月が2つになっていたり、気づけば違う世界に行ったりもする。
そんなことが起こったとき、普通の人はどう思うだろうか?
「やれやれ、しょうがない」で片付く話ではないのだ。
でも、主人公はそんな出来事と向き合い、取り乱すことなく、淡々と日常を過ごす。
文章を書いたり、ビールを飲んだり、年上のガールフレンドと時々セックスをしたり、休日にはパスタを作ったりする。
村上春樹の描く世界では「組織(システム)」がその理不尽さの根源にある。
主人公はそんな社会の組織(システム)の一部に組み込まれまいとする生き方ーー自分自身のすべきことを淡々となし、極力世の中と関わらない、最低限度の生活ーーを選び、そしてまた、どこかでそんな世の中に組み込まれて生きていく。
「社会」と「個人」、「システム」と「自分」を対比しながら、どこか冷めたような人生を生きる。何かを創作し、物思いにふけり、毎日決まったことを淡々とやる人生。理不尽さと向き合い、理不尽さの中に壮大な世界を見出すという生き方が、物語に触れる僕らを魅了するのだと思う。
理不尽さに頭を悩ませている人たちも多いだろう。
そんなときは、世の中と距離を取ろう。
物理的に距離を取るのが難しければ、極力孤独になる時間を持とう。精神的に世の中と距離を取るのだ。
そして淡々と、丁寧に生活をしよう。自分の好きなことをして、素敵な音楽を聴いて、できれば何かを創作する生き方がいい。
本を読んだり、ギターを奏でたり、こうして文章を書くのもいいと思う。
そう言う生き方を人生の中に持つことによって、ささやかな楽しみと喜びを見失わずにすむ。
明日の東京は寒いらしい。雪が降るんだって。