1992年に生まれて

思うこと

僕は今年、27歳になります。
平成が始まって少しした1992年に生まれて、今年、早いものでその平成も次の時代へと移り変わろうとしています。

ちょうどバブルが弾ける時に、僕は生まれ育った地元ではなく、父親が転勤をしていたとある街で、そこに付いて行った母親との間に僕を身ごもったと聞いています。

そこは温泉が綺麗な街だったと聞いてはいるのですが、飛行機に乗らなければいけないという場所柄もあり、いままで一度も足を運んだことがない場所です。

いつかは行こうと思いつつ、また、いつか日本一周も自分の足でしてみたいと思いながらも、なかなか実現できずにいます。いつか日本一周をしたとき、僕がこの世に来たその場所を終着点にしてみようかとぼんやり、本当に時々、考えたりもします。

さて、今年で27歳になる僕にはもちろん10代の頃があり、ハタチを迎えた時がありました。

僕の生まれた後に日本は、バブルが崩壊をし、阪神淡路大震災があり、2011年には東日本大地震が。そして去年は僕が住み始めた大阪で地震や台風などもありました。

この30年弱の間に、社会は大きく変化したと思います。
特に僕が物心ついた時にはインターネットが広がり始めており、僕も1台自分のパソコンを持って、それが僕の遊びの世界でした。

10年ほど前、僕の高校時代にはスマホが徐々に広がり始めて、今は1人1台、スマホで世界中の情報にアクセスできることが当たり前の時代なのです。

そんな時代に生まれて、平成が終わりを告げようとしている今、ありがたいことに僕はいまだに10代の学生ともたくさん話をします。
このブログを読んでくださっている方々の中にも、今からハタチを迎えようとする人たちだってたくさんいます。
(メールを送ってくれる人も時々います、全部読んでいます、ありがとう!)

なんとなく、こういう時代に生まれて社会を見つめる僕という立場で、いま、何を語ることができるのか?

柄にもなく、ふと、そんなことを考えています。

人生で大切な「資料」を自分の中に取り込む時間

僕は10代の頃、ずっと1人ぼっちでした。

友人と呼べる人も少しはいましたが、心はどこかずっと1人ぼっちだった。

小中高と部活でサッカーに打ち込んだりもしましたが、だからと言ってサッカー部の仲間たちと遊んだり、語り合ったりできたかというと、僕はそこまで大人じゃあなかった。
結局、ずっと1人で何かと向き合っていたような気がするのです。

中学、高校時代は毎日図書館に通っていたし、それこそ大学時代はほぼ大学の図書館に住んでいたと言っても過言ではありません。
1人ぼっちの僕にとって、本を通して見る社会こそが世界でした。

僕はあの頃、まっすぐな目で自分や社会や大人たちを見つめて、人生において大切な「資料」をひとつひとつ、自分自身の中に取り込んでいくという大事な作業をしていたのです。

実はその時間と作業こそが、人生において一番大事な時間なのだと思う。

いま、10代や20代を過ごしている人たちに言いたいことは、たくさんの本を読み、そして自分や社会や大人を見つめ、あなたにとって大事な「資料」を、丁寧に取り込んでいく作業こそあなたが今すべきことだと思うのです。

取り込んだ資料がどのような意味を持つのかとか、何にどう使うのかとか、そういうことは後から考えれば良いのです。
そんなことは、今考えたところで、答えは出ません。もしも答えが出たのならば、それは実はあなたにとって大事なものではない可能性の方が高い。
人生というのは、そういうものです。

僕も振り返って見ると、10代はもとい、20代という時間においてもそういう時間を過ごしているような気がするのです。
就職をして大阪に来て、日々仕事に打ち込んでいる今も、結局はあの頃とやっていることは変わらないのです。

あの頃は必死で目の前のことに打ち込んでいたし、たくさんのことをぐるぐると自分の中で考えて、言葉にし、たくさん書いて、わけがわからなくなってしまうこともありました。

今の僕もそう。結局、意味を見出すことはできないのかもしれない。
ちょっとばかし大人になってみたけれど、あるいは仕事も社会もビジネスも、それとなく仕組みがわかるようになって来たりもしていますが、じゃあ、それが自分の人生にとってなんだと言われたら、難しいのかもしれない。

でも、好きなことを見つけて、人生を味わって見る。
そういう時間でいいのではないかと僕は思うのです。