雑多な世の中でこそ孤独に哲学を磨こう

日々徒然

日本の智の雄である東京大学。
平成30年度。平成最後の卒業式における総長式辞の言葉がとても素晴らしかった。

『ポスト平成社会における多様性尊重の意義』と評して、素晴らしい文章が展開されています。

「地球の有限性を前提としたうえで、人間の幸福とは何かという単純で素朴な問いに改めて取り組み、地球と人類社会を持続可能な形で発展させる道筋を求めて行かねばなりません。」

という前提の中で、何を大切すべきなのか?

(以下抜粋)

第一にpositiveであること。positiveとは、現在あるものをそのまま受容し承認することではありません。今は存在していないかもしれない、真に肯定できるものを前向きにつくり出していくということです。第二にdiverseであること、文字通り多様性を尊重することです。第三はconsummatoryであることです。見田先生は、これはとても良い言葉だが適切な日本語に置き換え難いと断りを入れたうえで、instrumental すなわち「手段的」「道具的」といった認識とは反対の境地だと論じています。それは、私達が行う現在の活動について、未来の目的のための手段として捉えるのではなく、活動それ自体を楽しみ、心を躍らせるためのものと捉えるということです。語源を探っていくと、con-は「ともに」という意味であり、summateは「足し合わせる」という意味ですから、ただ一人だけで楽しむということではありません。

すごい文章だと思わされるのですが、いかがでしょうか。

特にconsummatoryをinstrumentalの対義語として定め、今この瞬間の活動を、心躍らせるためのものとして捉えるのだと。
しかしながらそれは、自分一人で自己完結するものではないのだと。

まさしく、多様性を活力とした協働。
日々の中で、このようなphilosophyは忘れ去られそうになりますが、自分自身の中にこうして回帰できる原点を置き続けたいものです。

哲学こそが在り方を決める

東京大学のブランドメッセージは「志ある卓越。」です。

東大生の皆が必ずしもそうあるわけではないかもしれませんが、大学として「こうありたい」「東大はこうあるのだ」というブランドメッセージが、「志ある卓越。」なのだと思うのです。

上の総長式辞にも表れているように感じられますが、社会を見つめ、仕組みを見つめ、人々を見つめ、変化を見つめ、そして自分自身をも見つめる。

その見つめる目に何を思うのか?自分自身はどうありたいと願い、どうあるべきだと思うのか。
それこそが哲学です。生きる道だと思うのです。

結局は、誰かが何をするにしても、同じようになることが多い世の中です。
会社もビジネスも人々の消費活動もコモディティ化をしていて、何のために自分は生きるのか?という根っこの部分が忘れ去られているようにすら感じられる。

僕自身が、やっぱり日々の雑多の中で、自分自身のあり方を見失いそうになってしまうこともたくさんあります。

けれども、こうして回帰することができる原点がどこかにあるのならば、それが自分の哲学であり、ああ、そうだ。僕はこのためにいま、ここに立っているんだということを思い出させてくれるのです。

それは時には自分自身の部屋で己を見つめる時でもあるし、街を歩いて都会のビル街を眺める時でもあるわけです。

でも、大切なことは「自分一人になって、孤独に己と向き合う」という時間以外の何者でもないのです。

人々と社会活動を営む僕ら人間ですが、人々と忙しく過ごす中では、自分自身を見失ってしまうというパラドックスを抱えているのです。

だからこそ、本を読んだり、物語に触れたり、ものを書いたりする時間が必要なのです。
そういった活動は、孤独じゃないとできないものです。
「時間ができたらする」という類のものではなく、あくまでも孤独に向き合う作業なのです。

孤独に、哲学を磨こう。