年賀状を書くという行為は、自分の人生にとって大切な人を思い返す時間

2019年1月5日社会人2年目(大阪)

12月28日がちょうど金曜日で、2018年の仕事納めの日でした。

会社の事業部の忘年会に一次会だけ顔を出し、そのあと、プライベートで付き合いのある先輩の会社(学生時代からお世話になっているところ!)と、こじんまりした忘年会(という名のただのご飯会)に顔を出し、そのあと二次会まで行って、帰ってきたのが夜中の1時半くらい?

そんなこんなで、今日は夕方まで爆睡し、冬休みを迎えました。

個人的なほうで行った忘年会の方が楽しくて(会社の人、ごめんね)、
教養という名の引き出しのオンパレードで、めちゃくちゃ盛り上がった。

これはまた別の機会に書くとして。

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いま、またまた一人でガストに来て、こうしてブログを書いています。

ハンバーグを食べて、それからずっと年賀状を書き続けていて。

学生時代から手紙という手紙を書きまくってきた僕ですが、やっぱり年賀状を書くのはいいなあと思うのです。

年賀状を書くと、大事な人の顔を思い出す

仕事関係の人には、クリスマスになる前に年賀状を出しきっていたので、今は個人的なつながりの人たち向けに年賀状を書いています。

ちなみに、仕事関係の年賀状は、少なく見積もっても100枚以上は書きました。

さて、プライベートで「誰に書こうかな」と考えながら次々と年賀状を書いていくのですが、友達、先輩・後輩、学生時代に出会った大人の人たち、中高〜大学の先生たちなど、色々な人たちとのつながりがあって、今の僕があるわけです。

僕は基本的にフルオーダーの手書きの年賀状(手紙もね)を書くのですが、一人一人の顔を思い浮かべながら、次々に言葉が浮かんでくるわけです。

「書くことがない」という人もよくいますが、僕はそんなことは一切なくて、その人に向けたフルオーダーメイドのメッセージを太いペンで書きます。

「次は誰にしよう」ということを考える時間はきっと、今までの人生で支えられた人たちの顔を思い返す時間で、「そういえば、学生時代の先生にもお世話になったなあ」とか「あの友人や後輩は、何をしているかなあ」とか、「あの時であったあの会社の人とか、どうしているかな」とか。

毎日を生きていると、なかなかそういうことを考える機会というものはなくて、今目の前にある仕事や利害関係の人と、少々のプライベートの人たちとの関係だけで世界が終始してしまいがちなのが人間です。

ですが、そうではなくて、本当は数え切れないくらいの人たちとの出会いの中で、今があるのです。

1年に1度くらいは、そういう人たちを思い返して、言葉を紡いでみるのも良いのだと思うのです。

それが「年賀状」という文化を作った昔の人たちの知恵だと僕は思う。

日本の文化というのは、素敵ですよね。

メールやSNSももちろん便利で、いつでも連絡は取れますが、だからこそ気づけば連絡を取らないでいつしか忘れていってしまう人たちもいるのです。

手書きのアナログの魅力は、小さくなってもなくなることはないのだと思っていますし、僕はそういう温もりは忘れたくないと思っています。