深夜のファミレスが支える僕らのもうひとつのリアルがあると思う
先日、ふと『ファミレス24時間営業廃止、携帯が深夜の客足を止めた』という記事を読みました。
ファミレス24時間営業廃止、携帯が深夜の客足を止めた|inside Enterprise|ダイヤモンド・オンライン
ふと、この記事が僕の中に引っかかって、ブログに書こうと思って書き始めたのですが、実際にこの記事の何が僕の中に引っかかったのだろうか。
上の記事の内容を簡潔に書くと、もともと深夜のファミレスというのは、高度成長期以降、人々に「場所」を提供し続けてきたんだと。その場所というのはつまり、僕らの「コミュニケーションの場」ということ。リアルに人と会って、食事をしたり、飲み物を飲んだり、そして何よりも誰かの顔を見て時間を共有することができる場所、ということなんだと。
一方で、21世紀に入って、人々の間に「携帯電話」が急速に普及したことが原因で、僕らに対して「コミュニケーションの場」を提供する必要性が薄れていった。少なくともただ単に「食事」を求めるのならば人々は24時間空いている牛丼屋へ足を運ぶ。
人件費(人手不足)の問題と、お客さんが集まらない現状の兼ね合いの中で、今後のファミレスのオペレーションが変わっていかざるを得ない。
というような内容です。
そういうものなのかなぁという感想ですが、僕はやっぱり深夜に開いているファミレスというのは、そこに行けば人がいる場所があるというのは(そういう場所があるということ自体が)良いと思う。僕自身のすごく個人的な感覚で言えば、深夜営業がなくなって欲しくはないなと思うのですが。
ということを書いているうちに、以前にそれに似たようなことを書いたなあと思い出した。
確かに、経済合理性でいくと、いまのシステムのままではファミレスの深夜営業は続かないだろうと。
深夜営業を撤退するか、あるいは少なくとも仕組みを変えること。
例えば、食事は出さないで、ドリンクバーのみにすることで人件費を抑え、終電〜始発の間はフリースペース(充電、Wi-Fi、仮眠)の場所として提供できるオペレーションに変更する。
というような形にするということも考えられるはずなのですが。
でも。それでもやっぱり僕は、深夜に人の温もりが感じられる場所がファミレスだと思うんです。
そしてやっぱりどこかで、その場所は人々にとって良い場所であるはずで。
深夜にひとりでファミレスに入り浸る時間というのは、あるいは自分の中の「何か」に向き合って、それがどこかに結びついている感覚をひとつひとつ確かめるように手繰り寄せることができる場所というのは、人々のもうひとつの側面を確かに支えているような気もする。
そんな中で始発の時間が近づいてくる。社会が動き出し、また新たな1日が始まっていくというような、そんな時間の境目に居られる、その社会に触れることができる場所は、やっぱりいいものなのかも、しれません。
なんてことをふと、思っていたんだなぁと、この文章を書きながら気付かされました。
結局、どうすべきかなんてものは、僕にはわからないのだけれども。うん。
読んでくださって、ありがとう。