最後の今のその先に
物事には、必ず潮時というものがある。
それは、ずっと続く雨がないように、打ちつけた波が必ず引いていくように、何かが唐突に始まってどんどん進んでいったとしても、必ず物事には終わりがあるんです。
今日、その波が僕の心に入ってきた。感覚的だけれど、進んでいる道に終わりを感じました。
そしてそれは同時に、次の道の始まりであって。自分自身が立ち止まらない限り、旅はまだ終わらないんだと。ずっと続いていくんだと。そういうことなんだと、スッと心の中に入ってきました。
すべては常に、永久につながっている。
僕はそう思っています。
僕が大学に入るまでの20年間という時間は、僕にとってすごく長い道のりだった。
言うなれば、僕は自分の足で歩いていて、同じ街の中をぐるぐると歩き回る。そしてやっと隣の街へたどり着く。そう思ったら場所は実は、ちょっと前まで僕がいた街とほとんど変わらない景色が広がっていて、同じような人が、同じような時間を過ごしている。
なんのために旅をしているのかわからなくなって、僕が見たい景色はこんな景色じゃないともがきながら、でもその空気の心地よさに引き込まれそうになる自分との間で、葛藤に揺れる旅だった。
いまいる街を手放す理由なんて何一つなくて、暖かく感じられる居心地の良さがそこには広がっていて、そしてそれが僕にはすごくつまらなく感じられた。
人も、森も、川も、道も。すべてが僕を、その場に引っ張っているような気がしていて、必死に「何か」から逃れようと、次の街を求めて歩き続けていたんです。
でも、次の街は、すごく遠かった。
歩いても歩いても、全然進んでいない自分自身がいて、それはまるで、何者かに追いかけられている夢の中で、逃れようと必死に走っているけれど、その場で必死にもがいているけれど全く走れない恐怖。そんな恐怖に似たような感覚が常に僕自身につきまとっていて、このままではおかしくなってしまうんじゃないか、狂ってしまうか、壊れてしまうか、そんな葛藤で毎日が過ぎていきました。
そんな10代を過ごしていた僕にとって、大学に進学するというのは、奇跡のような出来事だった。
それは勉強がどうこうという意味ではなく、それ自体が僕にとって、それ自体で奇跡のようでした。
自分でも何を書き綴っているのかわからないけれど、本当にそう想っていて、嬉しいという感情よりも、なんだろう。僕の命と、使命と、生かされている感覚と、いろんなものを背負って、次の扉を開ける。そんな気概の中で、僕の長く、暗い10代は終わりを告げました。
それ以降の僕は、それまでの葛藤と怨念の時代とは少し違っていた。
どこまで行ってもたどり着けない苦しみとは違って、逆に、見える景色が徐々にスピードアップしていき、気がつけば猛スピードで外の世界が変わっていきました。
物事が移り変わる速度が、尋常じゃなくはやくなっていった。いまいるステージが変わるタイミングが早すぎて、追いつけない時もあったくらいです。それくらい、いる場所や接する人、言葉はあれですが自分自身のレベル感も含めたステージ。その全てが、どんどんと移り変わっていった。
周りの物事が変わるタイミングというのは、自分でわかる。物事が波のように流れていくとするならば、すべての物事に潮時があって、僕が大学時代に乗っている波は、すごいはやさで次の波へと移り変わっていきました。
僕はいま、次の扉の前に立っています。
その扉の先には、それまでの世界よりも広く、そして深い海が広がっている。同時に、それまでよりも深い暗さと、出会ったことのない人々がそこにはあって。
その先に何が待っているのか、その先にちゃんと未来を描くことができるのか、そんなことは今の僕にはわからない。わからないんだけれど、きっと、うまくいく。僕はそう想っています。
僕は大学生になって、海が好きになりました。
それまで、全くと言っていいほど近寄ることをしなかった海。でも、僕自身で向き合ってみると、そこには壮大なエネルギーと、未知なる世界が広がっていて、繰り返し打ち付ける波と、広大な水平線を見ていると、僕は何かを託されたような気になります。
いまこうして机に向かっている僕のその先には、広大な大海原が広がっている。
その先に向かって僕らは、次の一歩を自分の足で踏み出さなければならない。
そうしたいからそうするのではなくて、もちろん僕自身がそうしたいんだけれど、僕は、そうしなければならないんです。
それが僕の進むところだと、僕はそう想っています。