『嫌われる勇気』を読んで 〜「今」の自分自身を生きていくしかない〜

2019年1月4日書評(という名の感想文)

前の記事に、『嫌われる勇気』の本を読みました、という記事を書きました。

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一気に読み切ってみて、特にメモを取るとか本を見返すとか、そういったことはせずに書きたいと思うので、細かい言葉のニュアンスとかは異なっているかもしれませんが、いま僕の中から出てくる言葉を一気に書きたいと思います。

まずこの本の構成として、「アドラー心理学」という心理学を説く(あるいは研究している)哲学者と、若き青年が主人公です。

この2人が対話を通して、哲学であったり人間の真理であったり、それらをアドラー心理学の側面から理解していく。

というのが、この本の大枠のストーリー。

読み終わった感想として、個人的にすごく面白く読むことができ、かつ興味深かった。

僕自身が今までいろんな本を読むだけではわからなかったこと、いろんな人と接して、痛い思いをたくさんして、少しずつ自分の中に入っていった考え方や世界の見え方というのが描かれていて、それをうまく言葉にしてくれたように思いました。

もちろん、全てが全て無条件にそうだと思ったわけではありませんが、すごく共感できるし、かつ興味深い内容だと思ったということです。

「今」の自分は自分で選択する。ということ

まず、最初に「おっ」となったのが、

世の中は「原因論」ではなくて「目的論」である

という考え方が、わりと序盤に出てくるところ。

一見すると、人間も世の中もそうですが、「あの現象があったから今の自分がある」というような、いわゆる「原因論」に議論が帰着することが多いのだけれども、実はそれは、必ずしもある原因があって、それによって未来が決定される。というわけではない、ということが描かれています。

なるほど、と思って。

もちろん過去のとある出来事が大きく起因して今の自分があること。少なくとも一部の人間特性が形成されていることは、ある程度は事実だと思いますが、必ずしも「この出来事によって、こうなった」と100%決定するものではないんだろうな。と僕は思っています。

そういった意味では、この本で書かれている「目的論」という議論は興味深くて、そもそも僕ら自身が”ある人間特性”を選択するわけであり、そしてそれはなんらかの「目的」に適ったものである、ということです。

実際いまの自分が感じていること、考えていること、ある人間特性。

そういったものは、自分が「そうなりたい」と思ったから、あるいは自身がなんらかの目的を持っていて、それに適うように今の自分自身を作り上げている(選択している、ということ)のだと。

ある時に何かが起きて、その出来事は自分自身では決定できないのものだったとしても、あるいはその時の環境要因があったとしても、結局は「自分がどうありたいか」ということによって、つまりは「自分自身が何を選択するか」によって、今の自分が決まっていくんだと。

繰り返しますが、今の自分と過去の出来事が100%無関係であると言っているわけではありません。

もちろん、程度の差はあれ、なんらかの影響は受ける。それは事実だと思います。

大事なのはあくまでも、「今」の自分自身が何を選択するのか、ということ。

自分自身が起きた物事や身の回りのことを、どんな風に解釈をし、自分の中に入れていくかということなのではないでしょうか。

ちなみに本の中では、引きこもりの友人の話が出てきたり、あるいは幼少期の親による切迫によって、その人がどうなっていくのか。

というような、具体的な事例もわりと引き合いに出された上で議論が進んでいるので、なかなかに興味深い。

(もう一度言いますが、個人的には、書かれている内容全てに対して、諸手を挙げて賛同しているわけではありませんよ)

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

僕らは与えられているものをどう使うのか

あと一つ。

いろいろ書きたいですがいくらでも書くことができそうなので、この本の中からはあと一つについて。

僕自身がそうだなと思いつつ、本当に100%の確信を持っているものではなくて、いろいろ考えながらのこととして、書きます。

それは、上に書いた「自分で物事(の解釈)を選択する」という話に繋がりますが、環境要因についての議論です。

この本で繰り返し説かれているのが、あくまでも選択をするのは自分であると。

いうなれば、

大切なのは、何が与えられているのかではなく、与えられているものをどう使うか。 (引用)

ということなんだと。

僕自身は、どちらかというと上で書いたこの意見です。

つまりは、環境要因はいろいろなことに大きく影響するけれども、ある程度以上に関して言えば、それは自分自身で選択するものであって、それは物事の解釈を含め、未来の自分を決めていくのはあくまでも「今」の自分自身のスタンスである。

という考えです。

ここで例えば、僕自身はこういうことがあって。というような話を書くと、それはまたちょっと違うような気もするので。

というのも、それもまたあくまでも僕の「今まで」の話であって、過去の話なわけです。

それらを並べて書くことでどうこうという話は、ここでの議論の本質とは異なっていうような気がする。

なんでこういう曖昧な書き方をしているかというと、本当に僕自身にとっての明快な回答が自分の中にないからです。(考え続けてありたい。と思っています。)

何が与えられているのかではなく、与えられているものをどう使うか。

確かにその通りだと思う。

少なくとも、今までの僕はそう思ってきたし(そう思えない時期もあるにはあったけれども)、今の僕もそのスタンスで生きています。うん。

結局、大事なことは「今」の僕が、物事をどんな風に自分の中に取り入れて、何を考え何を選択をし、「今」をどんな風に生きるのか。生きようとするのか。ということなんだろうと思うんです。

少なくとも僕自身は、これから先も「今」を生きていくこと。

それしかないんだなと思っています。

過去の成功も、挫折も。

未来への不安も、他者との比較も。

全くもってどうでもいい、とまでは言わないけれども、人は人だし、僕は僕で、僕は僕の人生を、今を、淡々と、そして精一杯生きていくしかないんですね。

”そうしなければならない”のではなくて、僕自身がそう生きていきたいからということです。

僕は、今の僕にできることを。しあわせを。

結果としてそれが他人(ひと)にどう思われるとか、そんなことはどっちでもいい。

言葉を借りるならば、「ひとの課題はその人のもの」ということ。

結構以前にですが、「自分を大切にすること」の記事を書いたことがあります。

結局は、そういうことだと思っていて。

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これからの人生も、よろしくお願いします。

抽象的な話を書いたように思いますが、ここまで読んでくれて、ありがとう。

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