一次情報の大切さ 〜自分の目で見たもの以外は、批判しない評価しない〜

2019年1月6日思うこと

SNSの時代になって久しいです。

こうして僕がブログを書くこともそう。個人として情報を発信し、またそれと同時にたくさんの情報に触れて、その中から情報を取りに行くことができる時代に生きている僕ら現代の人は、すごく恵まれているなと思うんです。

個人として情報を発信することの大切さは、いくら書いても書ききれないほどにあります。

僕ら世代というのは、ちょうどそのドンピシャの世代に生まれています。スマホ世代ではありますが、その少し前の時代というものも知っているし、スマホ世代=手軽な情報世代とするならば、その時代の変化も体験している。

ちょっと前に生まれるとそういうわけにはいかなかっただろうし、ちょっと後に生まれても、逆に当たり前になりすぎたものだったはずです。

現に今の10代の人たちというのは、物心ついて携帯電話を1人1台持つならスマホ。が当たり前の世代になっている。

それはひとつ文明の偉大な進化だと思うし、僕らはその恩恵を大いに享受しています。

そしてその時代の恩恵は同時に、僕らに大切なメッセージを伝えるものであるとも思うんです。

それは、情報化時代の現代だからこその「一次情報」の大切さです。

一次情報というのは、つまりは「経験」や「体験」のことです。自分の目で見て、触れて、経験したこと、体験したこと。

その一次情報、言うなればアナログの体験の価値が、ものすごく問われる時代になっているんだと思うんです。

情報というのは、価値だということは事実です。

一方で、検索して気軽に手に入れることができる情報自体には、ほとんど価値がなくなってきている。

そこで問われるのが、その検索をする人の力、いうなればデジタルではなくてアナログなんだと思っています。

それが一次情報の大切さ、ということなんだと。

今の時代では、いわゆる「ググれば」大抵の情報は一瞬で手に入ります。

でも、その誰でも手に入れる情報自体には、ほとんど価値はない。なぜなら、誰でも手に入れることができるからです。

SNSでもそう。気軽に、手軽に、手元のスマホから一瞬にして個人として情報を発信することができる。

それ自体はすごく価値あることですが、同時に弊害として、自分が実際に経験したことではないにもかかわらず、それをあたかも経験したかのように”錯覚”してしまう、ということです。

そこには、リアルな感情は伴わない。少なくとも、触った感触とか、匂いとか、そういったものを感じることはできないんです。

SNSの匿名性はさらにそれに拍車をかける。

自分自身が経験したものでもないし、自分自身が考えたことでもない。にもかかわらず、匿名性という壁に囲まれた安全な場所にいて、気軽に批判や評価をしてしまう社会は、なんとも寂しいものだと僕は思うんです。

自分自身の言葉ではなく、誰かの言葉をあたかも当たり前のように使っていくこと。それもすごく、寂しいことだと僕は思う。

どうして自分の目で見たものでもないのに、あるいは実際に会って話したわけでもないのに、たかが一側面を見て、批判や評価をすることができるのでしょう。

それこそが一種の”ムラ社会”を形成する大きな要因にも思えてきて。

だって、手軽じゃないですか。

検索すれば、すべてがわかったような気になってしまう。

SNSを取り巻く情報を鵜呑みにして乗っかれば、あたかもそれが自分の頭で考えたことのように思えてきてしまう。

便利な社会なのに、それによって心をなくして「忙しく」なってしまうならば、それはすごく寂しい気がします。

翻って。

じゃあ僕は、自分で経験したことのないものを評価したりしていないのか。そんなことはない。

頭でっかちになって、あれはどうだとか、あの人はこうだとか、そんな風に言ってしまう自分に気づいて、嫌になってしまうこともたくさんあります。今でもそう。

そんな自分に気づいて、うじうじしたり、ああ、なんであんなことを言ったんだろうとか、どうして見える一面だけで決めつけちゃったりしたんだろうとか、そんなことを考えるんです。

だからこそ、こうしてブログに書き綴っているわけだし、そんな自分を受け入れつつも、常にその気持ちは忘れずにありたいなぁと思っています。