継続できることこそが才能だと思う 〜何かに打ち込んで生きるということ〜
僕は、なんていうのだろう。
いわゆる「すごい人」と言われている人に会っても、あんまりなんとも思わないのですが、一つのことに打ち込んでいる人。職人肌というのでしょうか。そういう人に会うと、鳥肌が立つんです。
すごい人と言われている人というのは、例えば社会的に地位がある人とか、どこの企業の役職についている、とか。
そういう肩書きとか権威に対して、それ自体が価値である。みたいな空気感が、以前からあんまり好きではありませんでした。
その立場がすごいことであること、価値あるもので、誰にでもできるものではないのだろう。そういうことも踏まえた上でなお、僕の個人的な考えとして、ということです。
以前から、というのは、例えば学校の「先生」とか、周りの大人の中で「あの人は」と言われている人とか、そういうことです。
特に僕の父親は、僕にとってはすごくどうでもいい(ように見える)そういうものを大事にする人でしたから、そして僕の周りにいた大人の多くもそうだったので、まあそれはそれでも良いのだけれど、僕自身は不思議な想いをもって10代を過ごしていたなと。
大学に入ってからもそう。なぜか気づけばいろんな大人に会う機会をもらっている中で、(実際わりとあるのですが)権威に媚びることを強制されることは、僕自身はすごく嫌だということに気づかされました。
自分にとって何が嫌か、ということに気づけたことは、大学時代の大きな気づきなわけで。
個人的にあまり好きではないけれど、それなりにうまくやってきたことも事実ではあるのですが。。
僕が言っているのは、つまりは、”それ自体が無条件にその人を見る指針となること”が好きではないということであって、ただ偉い人が嫌いとか、そういうことではありません。
然るべき人には、然るべき社会的評価が自然とついてくるのだと思っているので。実績には、心から敬意を払いたい。
要は、人と向き合うときには、その人自身をまっすぐに見たいと思っている、ということです。
何かに没頭している人は美しい
一方で、これは僕自身が以前からそうだったのですが、何か一つのことに打ち込んでいる人。例えば音楽家だったり、あるいは研究者だったり、ビジネスでもいい。スポーツ選手でも、作家でも、そうです。
職業である必要はなくて、別になんでも良い。
何かに没頭している人、全身全霊で打ち込んでいる人に対しては、すごく身の引き締まる思いがするんです。
例えば僕は大学で物理を専攻しているのですが、大学の教授というのはその道何十年、みたいな人がいるわけです。
特に理系の教授というのは、そこに振り切っている故に、一見どこか変なように見えることも多い。
授業中はまるで偉大な講演者のように大きな声で学生と話をするにもかかわらず、廊下ですれ違うと目も合わさない。こちらが「こんにちは」といっても完全に無視したり、みたいなことは、わりと日常茶飯事なんですね。笑
でも、そういったものも全部ひっくるめて、やっぱりその道に没頭している人たちは、すごいなって思うんです。
対面すると、緊張するし、背筋が伸びる思いがするんです。
そこには、その人にしか出せない雰囲気というか、オーラみたいなものがあって。
それが僕の目には、すごくかっこよく見える。
それがたまらないんです。
同じ世代の学生とかにしてもそう。
4年間、何か一つのことに打ち込んできた、例えばそれが部活だったり、サークルだったり、学問だったり。
そういったものは、僕からするとすごく眩しくて。
結果がどうとか、そんなふうに評価する必要はなくて、ただその事実が偉大なことだと、僕は思うんです。
僕はありがたいことに、自分の人生を、まっすぐに生きている。そんな人に出会うことができました。
愛にまっすぐだったり、人を信じることにまっすぐだったり、そもそもその人自身がすごくまっすぐで。
他のものがどうとか、そんなことは重要なことではないんだと。
同時に、いろんなもののバランスをとって生きることもまた、それはすごい生き方ではあります。それならば、そういう人はそれを突き詰めれば良い。
翻って、僕自身は、いったい何にまっすぐに生きてきたのだろうか。
打ち込んできたものはあるのか。
これからの僕は、どんな風に、何を大切に、何に没頭して生きて行くのか。ということなんです。どんな人生を極めて突き詰めていきたいのか。
このブログはひとつ、その指針になったら嬉しいですね。
読んでくれるあなたが、いるからです。
いつも、ありがとう。
<追伸>
継続できることは、才能なんですね。
それが本当に好きなことに没頭しているということ。