書くという極めて孤独な作業の先には、壮大な世界が広がっている

2019年1月6日書くということ

文章を書くということは、とても孤独な作業です。

日々、パソコンに向かって、自分自身の中にある言葉を一つずつ汲み取って、文章にしていく。

大切なことは、自分の中にある言葉ということ。

誰かの受け売りではなくて、自分自身の言葉であるということがすごく大切で、その意味は、自分にしかわからないものなんです。

もちろん自分の中に入っている言葉というのは、たくさんの人や本から入ってくるものだけれども、それらはそのまま入ってくるものではなくて、自分というフィルターを通して入っていくんです。

自分というフィルターを通して、入ってくる言葉を丁寧に丁寧に変換していって、自分なりの意味付けとか、自分なりの理解をして、自分の中に言葉を仕舞っていく。

それをまた丁寧にひとつひとつすくい上げていく作業というのは、極めて孤独な作業なんですね。

でも、こうして日々文章を綴っていると、どうにも自分がひとりぼっちだという感覚はない。

例えば僕が文章を書くときはパソコンの前に座って、神様からの電話がかかってくるのを待っています。よし、書こう!と手が動くまでに時間がかかる時もありますが、いつ、どの瞬間に書きたいことが溢れてくるかは、そのタイミング次第なわけで。

そして、電話がなって、書きたいことが内側から湧き上がって来た時というのは、同時に、今まで出会った人たちの顔であったり、言葉が目の前に浮かんできます。

僕は目の前に浮かんできた人と対話をしながら、自分の中にある言葉を、ひとつひとつ文章にしていく。

僕にとって”書く”という時間は、誰かとの対話の時間であり、そして自己との対話の時間なんです。

だからこそ、”書く”という極めて孤独な作業の先には、壮大な世界が広がっているんです。

そしてその世界というのは、自分の中にあるもの。

書くということは、自分の中にあるものを、掘り起こしていくことなんですね。

この書くという時間があるからこそ、僕は自分らしくあることができる。

書きたいことを先に考えることもあるし、書きながら考えていくときもあるけれど、多くの場合僕は書きながら考えることをしているので、最初書きたいと思ったことが、書いている間にどんどん別の方向に流れていってしまうこともよくあります。

でも、やっぱり書いていることというのは自分の中にあるもので、自分が伝えたいと思っていることだから、それはそれでいいんですね。

僕は将来、本を書くということを通して、社会に何かを残すと同時に、問いかけるということをしていく。

書くという行為はすごく地味なものだけれど、その先には壮大な世界が広がっていて、たくさんの人たちと繋がっているという感覚があるからこそ、麻薬のようにたまらない感覚が体を巡っているんです。

いま、こうして出会っている人たちの人生を僕は、言葉にして誰にでも見れる形にして、残していきたい。

出会いに感謝。ありがとう。