繰り返し100回読める1冊に出会うために、100冊の本を読む。
僕はたくさんの本を読みます。
それこそ、大学に入った頃は、年間500冊どころではなくて、毎日、来る日も来る日も、大学の図書館に朝から夜まで入り浸って、本ばっかり読んでいました。
この習慣は、僕が高校生の頃にできた習慣で、僕は高2の夏に身体を壊してしまった。
僕は高校には半分通えなかった。前半の半分は、皆勤賞。そして、身体を壊してしまって、残りの半分は、ほとんど高校に通うことができませんでした。
学校に通えない中で僕は、ほとんど家にいるしかなかった。
たまに外に出るというのは、病院に行くか、近くのコンビニに行くか、あるいは本屋に行くか、それくらいしかできなくて、それこそ1日中自分の部屋に篭りきりにならざるを得ないという、究極の状態で過ごしていたのが、僕の10代の後半の数年間です。
外にほとんど出られない状態の中で、僕はひたすらに本を読み漁るようになりました。
ノートやブログに自分の考えを書き綴り始めたのも、その頃から。
僕がこうしてブログを書くという習慣は、高校時代に培われたものです。
それがこうして大学4年生の今も継続しているということは、それだけで僕にとっては大きな財産なんですね。
あの頃、どういうことを考え、何を感じて、生きていたのか。
そういった僕自身の人生の”リアル”が、今での大切にノートに残されています。
同時に、読んだ本のことと、その本を読んで考えたことみたいなものも、たくさん書き綴られています。
もともと本好きだった僕ですが、10代後半からはそれこそもうこれ以上はいい!と思えるくらいに、ひたすらに本を読み漁っていました。
大学に入ってからも、まるで乾いた心が、言葉の雨を求めるように、貪欲に貪欲に、本を読み続けていた。
10代後半からの数年間にわたって読んだ本の言葉の蓄積が、今の僕の大きなベースを作っています。
僕の本の読み方というのは、まずは形式的に本を自分のものにしてしまうことから始まります。
立ち読みも、図書館から本を借りることもほとんどせず、ピンときたものは片っ端から購入していきます。
その時点で、読む本と、積ん読にしておく本に分かれますが、それはそれで僕にとって大きな財産で。
自分でお金を払って買うという決断をした時点で、何かしらその本に対してシンパシーを感じて、心に引っかかるものがあるから、購入しているわけです。
それが本の中の一節の場合もありますし、本のタイトルの場合もあります。
あるいは、本のカバーかもしれないし、デザインかもしれないけれど、何かが心に引っかかる感覚を大切にして、本を購入している時点で、半分は本を買った意味が達成されているんです。
残りの半分は、積ん読にしておく価値と、あるいは本のページをめくってみて、何か1つでも心に残るものがあれば、すごく大きな財産だということです。
そのことがわかっているから、僕はものすごくたくさんの本を買うし、数ページ読んだだけで積ん読にしておく本もたくさんある。
それが、本当に本が好きだということなのだと僕は思っています。
繰り返し100回読める1冊に出会うために、100冊の本を読む
本当に出会いは、人との出会いと同じだなと。
出会いの形はいろいろあって、そしてピンときた瞬間があって、一度きりの出会いで終わる場合もあれば、何度も対話を重ねていく中でゆっくりと親しくなっていく場合もある。
人生の中で、本当に大切な親友が1人いれば幸せなのと同じように、本というのも、繰り返し読める本が今の自分の中に1冊でもあれば、素敵な出会いだということです。
繰り返し100回読める1冊に出会うために、100冊の本を読む。
僕は、そうありたいと思っています。
翻って。僕がこうして日々言葉を綴っていることも、同じだなと。
自分の中で、同じことを何度も何度も、綴り重ねていくということが、今の僕の一つ一つを作っているのだなと。
将来、僕が本を書いたときに、誰かの人生にずっと寄り添う言葉を残したい。
だから今があるんですね。
いつも、あなたに支えられています。
ありがとう。
これからの人生も、よろしくお願いします。