【林修vs高学歴ニート】「やりたいこと」が自分の中にあるは嘘?偶然に左右されることもあるという話

2021年9月9日子育て論, 日々徒然, 大学時代

東進ハイスクールの林修先生が出演する「林先生が驚く初耳学!」というTV番組がある。
その中で2019年冒頭、「高学歴ニート」特集が組まれた途端、SNSなどで拡散され話題を呼んだ。
(YouTubeで検索すると出てくるから探してみてね)

その中で「君たちのやりたいことは何か」という話があり、とても考えさせられる内容だった。

例えば高学歴ニートの方々は「好きな仕事じゃないと、働きたくない」という。
その「好きな仕事」というのは実は福利であり、待遇であり、という条件なのだ。

「好きな仕事」と言いながら条件で選んでいるというところがまた矛盾していていいなと思った。
本当に「好きな仕事」をしたいと思っているならば、給料が低いからと言って、休みが少ないからと言って、「好きだけれど条件が悪いから好きじゃない」とはならないのだけれど。

やりたいことは案外、偶然に左右される

君たちは「やりたいこと」があるだろうか。

例えば「ゲーム」が好きだという。だからゲームに関わること仕事にしたいというのだけれど、もし、100年前に生まれていまのスマホゲームやTVゲームがなかったとしたら、そもそも「ゲームを仕事にしたい」とは思わないはずだ。

僕らの周りには案外そういうことが溢れていて、実は自分が「好きなこと」「やりたいこと」と思っていることというのは、実は「たまたま好きになった」ということも少なくない。ようは環境に左右されるということなのだ。

林修先生がいうには、好きなことや、やりたいことというのは偶然に左右されるのだと。
であるからして、本質的には自分の「できること」を仕事にしてみてはどうか、ということを言っていたのだ。

これにはなるほどと唸らされた。確かに僕自身の人生を振り返ってみても、その時その場所で何かの物事に出会うという環境がなければ、そもそも好きだとかやりたいだとか思わなかったことはたくさんあると思うのだ。あなたの人生もそうではないだろうか。

できることは、やってみないとわからない

これから書くことは林修先生の主張ではなく、僕の考えなのだけれど、実は「やりたいこと」も「できること」というのも、実は実際に「やってみないとわからない」という点では共通なのではないだろうか。

林修流でいうと「やりたいことではなく、できることをやろう」ということになるのだけれど、そもそもできることが何なのかというのは、過去の経験則の中でしか語れないことは多い。

要はやったことがないことに対して、これは「できること」とはならないのだ。

ということは、実は「できること」というのも環境に依存しているという点で、「やりたいこと・好きなこと」と根っこは同じなのではないだろうか、というのが僕の意見。

根っこが同じということは、ぶっちゃけ食わず嫌いをせずにできる範囲でいろいろやってみないと、得意なこと(=できること)も好きなことも分からない、ということ。

と、僕は思うのだけれど、いかがだろうか。

結論、人生は「好きで・得意なこと」を仕事にしたもの勝ち

例えばこの文章を読んでいる人が10代の学生や就活生ならば、食わず嫌いをしないでいろんな経験をしてみた方がいい、ということをお勧めしたい。漫画でもゲームでもスポーツでも遊びでも何でもいいと思う。

もしこの文章を読んでいる人が社会人ならば、小さくても良いから、過去の延長線ではない選択をすることを心がけよう、ということを伝えたい。

例えば、今まで読んだことのないジャンルの本を読んでみるとか、新しくリリースされたアプリやゲームを「今時の若い人は」というのではなく、実際に自分でダウンロードして使ってみるとか。

あるいはいつも同じメンツで飲み会をしているならば、月に1度は今までとは違う人と飲みに行ってみるとか、いつもとは違うお店でランチをしてみるとか。

ちょっと余談だけれど、この前僕の先輩の知人で弁護士をしている人と仲良くなった。

実は彼はスマホ(らしきもの)を持っているにも関わらず、LINEもTwitterも知らないというのだ。今の時代に生きている30代にも関わらず、だ。

彼の今までの人生からすると、それらは必要のないものなのかもしれない。
でも、例えばLINEやTwitterを初めてみて、人生が劇的に変わるかもしれないのだ。そんなに難しいことではない。1日10分でいいではないか。

少しの間触ってみて、それでも「これは自分の人生には必要ない」と思うのであれば、やめればいい。何のリスクもないのだから。

人生を変えるということは、そういうことだと僕は思うのです。

1日1つ、0.1ミリずつマイナーチェンジしていくことが人生。