【映画】ザ・サークル(エマ・ワトソン主演)
エマ・ワトソン主演の映画『ザ・サークル』(2017)を観賞。
物語は、世界No.1のシェアを誇る超巨大SNS企業〈サークル〉。憧れの企業に採用され、奮起する新人のメイ(エマ・ワトソン)は、ある事件をきっかけに、創始者でありカリスマ経営者のイーモン(トム・ハンクス)の目に留まり、自らの24時間をすべて公開するという新サービス〈シーチェンジ〉のモデルケースに大抜擢される。瞬く間に1000万人超のフォロワーを得て、アイドル的な存在になるのだが――
僕個人の感想としてはすごく面白かったので、この映画が呈している現代のネット社会の”怖さ”も含めて思うことを書いてみたい。
”つながり”が価値の時代の中で
僕らが生きる現代をこうも加速させたのは、間違いなくインターネット。
特に2007年に初代iPhoneが発売されてからは、人々の生活の中に「片手のスマホで、世界とつながる」ことは欠かせないものになっていった。
僕のように辺鄙(へんぴ)な地方出身の男の子であっても、世界中の情報にアクセスをし、学ぶことができる。
学生時代にはスマホを片手に社会と繋がり、こうしてブログを書いてSNSで発信をしてつながることができた素晴らしい社会。
でも、気づけば僕らは1日の大半のうち、LINE、フェイスブック、そしてツイッターなどのSNSに多くの時間を費やす。
ここ数年は動画技術が発達してきたおかげで、そこにYouTubeという新たなプラットホームも誕生した。
この映画は間違いなく、Google・Facebookをモチーフにした超巨大SNS企業として「サークル」が描かれている。
人々はサークルというSNSを通して繋がり、情報をオープンにすることで世界はよくなるのだという前提のもと、より多くの人へ、より強固な繋がりを求めていく。
エマ・ワトソン演じるメイもその一人。
メイはもともと地元で働く1人の女性で、趣味は湖でカヤックを漕ぐこと。
美しい山々と湖面の中で1人、カヤックで佇む様子が、彼女が昔からある大事なものを大切にしている様子が伝わってくる。
友人の女性の誘いで憧れの最先端IT企業サークルに転職を果たし、スタイリッシュな働き方、パーティや娯楽が溢れている仕事生活にどんどんと惹かれていく。
海外のスマートな大学生、そうオックスフォードやハーバードのような大学ーー自由で強くて自分たちが確実に「何者かである」ことを確信しているような人たちーーが多く働くオフィス。何もかも刺激的で、イケてる。
メイがその世界の住人になっていくことが、カヤックを漕いで自然を大切に家族を愛していたメイが、最先端のIT企業が描く壮大な世界観との対比の中で、どんどんと変わっていく様子が描かれている。
SNSは人々のプライバーシーをどこまで犯すのか?
そんなメイも、会社の同僚たちが毎週のようにパーティ三昧をすること、自分たちが特別なんだ、自分たちのコミュニティには積極的に属さなければならないという無言の空気感に違和感を覚え始める。
病気を抱えている父親と、なかなか会えない友人。
色々な葛藤を抱え始めて悶々とするメイは、ある日の夜、1人でカヤックを漕ぎ出す。もちろん夜に無断で湖に侵入し、勝手にカヤックを借りて。
次が綺麗な夜の湖だったのだけれど、彼女はそこでカヤックを転覆させてしまい、危うく溺れてしまいそうになる。
運良く救出されたと思っていたのだが、実は彼女が助かったのは、湖に<シーチェンジ(Sea Change)>というサークル社のシステムがあったからで、人々の繋がりがあったからこそ彼女は助かることができた。
その事件をきっかけに、メイはサークル社の新たなプロジェクトのモデルケースとして抜擢される。メイを助けたシーチェンジというシステムを使った大規模なプロジェクトだ。
そのプロジェクトというのは、彼女が文字通り透明になること。そう、シーチェンジによって彼女の24時間はその全てが全世界にリアルタイムで配信されるというもの。
エマ・ワトソンの見た目をイメージしてもらえるとわかるけれど、彼女は瞬く間に世界のトップアイドルとなる。1000万人を超えるフォロワーを全世界に有して。
ここからメイの人生の歯車が狂いだす。
名声と影響力を手に入れた彼女だったけれど、大切なものを失っていく。
そう、家族であり、友人であり、そして何よりも彼女が本当に大切だと思っていた自分自身を見つめる時間である。
プライバシーという概念が存在しない世界。想像してみて欲しい。それが世界を本当によくすることにつながるのだろうか?
そこには、一見すると社会的にも意義のあるような世界観が描かれている。たとえば、
・犯罪者が文字通り透明になることで、嘘や犯罪のない世界に近づく
・サークルのアカウントと個人情報を連携することにより、全世界の市民が選挙に参加するように促し、投票率100%につながる
・バイタルデータを取得することで、より個人に合わせた質の高い医療サービスを提供できるようになる
などだ。これらは確かに人類がよりよく生きるためには必要な要素のようにも見える。
けれど、1つのプラットホーム、1つのSNSのサービスが社会インフラとしてオープンにつながるということは、最終的には1つの中央管理が行われるということにつながるのだ。
ここからは僕の仮説だけれど、例えば今の世界もワンワールドに近づいているし、それこそGoogleがない生活は僕らには考えられない。
でも、例えば全世界中のプラットホームを1つの仕組みが支配して、そこに例えばAIを導入したとする。人工知能だ。人々が嘘をついていないか、何か不適合がないかを判断し、より適正なマッチングを提供するために、だ。
そうすれば人々はどうなるだろうか。自分の人生全てが”誰か”に見透かされている。
便利で安全な世の中なのかもしれないけれど、その笑顔は虚像に過ぎないのではないか・・
行き過ぎたSNSの世界は、確かに便利な側面もある一方で、必ず負の遺産を抱えてしまう。人類が踏み出してはいけない境界線があるということを、この映画のメッセージとして描かれている。
非常に秀逸な映画だと思うので、興味がある方は見てみてください。
(Amazonプライムビデオで見れるよ!)