孤独な時間に感覚は研ぎ澄まされる

2019年8月22日日々徒然

日記調です。

今日は仕事を終えて早く帰ってきて、自宅でひとり、自分自身と向き合う時間を過ごしています。
ビジネスの前線にいると、時折ものすごく雑多な世の中を生きている感覚に襲われるのですが、そういう時には、ひとりで本を読んだり、癒しを与えてくれる物静かに過ごす夜の時間を欲してしまうのです。

独り暮らしの部屋で、エアコンが風を吐く音しか聞こえない中、こうして机に向かっていると、どこか懐かしい感覚が蘇ってきます。

そう、大学時代の図書館の景色。
夏の夜、ほとんど人がいなくなった図書館の一角で、大きな木の机に向かいながらひたすら本と共に過ごした時間がフラッシュバックしてきます。

 

ひょんなことから昔書いた記事を読み返していました。

読書の習慣について書いた記事ですが、僕の10代半ば頃の経験をもとに、大学時代のそれこそ夜の図書館で書いた文章ですが、読み返していて「あ、そうだ。やっぱりいい読書というのは、自分自身のタイミングで、自分自身で読むべき本を見つけてくるんだよな」という思索をしています。

僕が大学時代までを地元で過ごしてよかったなと思うことは、やっぱり雑多な刺激がない中で、自分の人生にとって大切な「生きる核」のようなものを作り上げることができた環境で過ごした、ということなのではないかと思っています。

『君の名は。』で世界に名を轟かせた新海誠監督が描く映画の世界観などがまさにそうなのですが、その世界観が語るのは、自分の内側に、自分にとって大事なモノゴトを築き上げるためには時間がかかるのだということ。
そしてそのためには、自分自身と向き合う、外界から切り離された内なる精神みたいなものがすごく大事になってくるのだということ。

あの映画は、都会と地方、時間の流れ方の違いをうまく対比させながら、情報に埋もれる現代社会へ大切なことを投げかけてくれているような気がするのです。

僕はありがたいことに、10代後半の4年間と、20歳で入学した大学時代の前半までを、そういう時間に充てることができた。
もっというと、10代の間はどこか社会と自分の精神に距離を置いて、ひたすらに「自分という存在」だとか「生きる意味」だとか「物語の持つ世界観と、人間への影響の重さ」だとか、そういう答えがなくとても抽象度が高いものに向き合っていたと思う。

大学時代の後半から東京に行き来するようになり、都会の刺激と、地元に帰って夜の大学の図書館で静かに自己の世界へ潜るというような時間と、その落差による陶酔を感じながら、気づけば僕は社会の荒波に放り出されていました。

 

仕事をするようになり、こうして都会の喧騒の中に生きていると、時々、大事なものをどこかに置いてきてしまったような感覚になります。

自分自身があの時は持っていた人間としてのもっともらしい感覚のようなものを、社会の煩雑さに埋もれるうちに手放してしまったような気持ちになるのです。

その文脈でいうと、だからこそ今の時代には「読書」という素晴らしい体験が求められているのだと思う。

文明の益を最大限に享受していますが、僕のiPhoneには何百冊もの本が電子書籍という形で入っているわけです。これほど便利なことはありません。

でも、やっぱり紙の本の意義は大きくて、例えば夜に一人でこうして薄明かりの中で自己と対話をする時には、電子書籍ではダメなのです。
何故ならば、スマートフォンを片手に読書体験をするというのは、日中にSNSをしたりずっと外と繋がっている状態と同じなのです。

今の僕らに求められいるのは、外の社会とつながることではなくて、内なる自己と対話をする時間です。

合理的ではないのかもしれません。現代の文脈とは真逆のことを言っているのかもしれませんが、人類というのは過去何千年、そうやって叡智を磨いてきたのです。
便利な電子デバイスの時代は、ここ20年くらいの話。まだまだ、まだまだです。

 

1週間の中で1時間だけでも、孤独な時間を持つことから始めてみませんか。

授業中、眠たい講義を片耳に、自分の好きな小説や哲学書に没頭していたあの感覚を、大人になってからももう一度持ってみるのです。

そういう意味では、退屈な学校生活も、その延長にあるような社会の生活も、アリなのかもしれません。

こうして文章を書きながら自己の内側を見つめる時間というものは良いものです。
少なくともこのブログという場所は、僕自身の対話、社会との会話、そして読んでくれる人との見えないけれど確かにそこにある頷きあいの中で、こういう内なる話というものも言葉にしていければと思っています。

今日は少し、ポエム調です。夜だからか。頭は冴えているのですが。