自分の人生を生きたければ、ちゃんと親離れをし、子離れさせてあげる

日々徒然

帰省をし、改めて気付かされたことがあります。

昨日、母親と一緒に、母方の実家に足を運びました。
僕にとっては、おばあちゃん家です。
幼い頃、毎週のように泊まりに行っていた家です。

その家には、僕の祖父母と、おじさんが住んでいました。
僕の母親の両親と、兄弟です。

僕のお祖父ちゃんは、僕が大学2年のときに亡くなりました。
そして、僕のおばあちゃんは、去年亡くなりました。

今ではその家は、僕のおじさんが住んでいます。
おばあちゃん家は、おじさん家になりました。

人の人生というものはいろいろあるもので、僕のお母さんと、その家はここ数年、仲が良いとはいえない関係でした。

必然的に、僕自身も疎遠になりかけていたのですけれども、
今回、帰省というタイミングもあって、母親と一緒に足を運んだ。

線香をあげ、おじさんと久しぶりに会って話をし、
母親とおじさんが繰り広げる大人の会話の間に入りました。

戦後の時代を生き抜き、僕の母親兄弟4人を育て上げた僕のお祖父ちゃんとおばあちゃんは、すごいなと思うのです。
あの時代に生き、子供を4人育て、土地を買い、一戸建て3階建ての家を建てました。

その家も今は、とても広くなっていました。

大学卒業以来なので、2年以上ぶりに足を運んだ懐かしい家。
広くなった家と、綺麗とはいえない部屋の中で大人の会話をする人たちを眺めながら、なんともいえない気持ちを抱えていました。

実家に居続けると、そこが世界の全てになる

僕のおじさんたちは60歳前後なのですけれども、人生で一度も独り暮らしをしたことがない人がいます。

僕の母親は4人兄弟の末っ子なのですが、上には男3人がいます。
その3人のうち、実家を離れて一人立ちをした人もいますが、そうではない人もいるのです。

僕の母親は、今の僕くらいの年齢では実家を出て、僕の父親と結婚をし、嫁いでいきました。

おじさんたちの中には、60年間ずっと実家暮らしの人もいます。
僕が幼い時、おばあちゃん家に行くと必ずそこにいて、遊んでくれたおじさんたちが大好きでした。

でも、僕が10代になる頃には、「ん?もしかして、何かズレている?」と思わされることに気づき始めました。
幼な心に感じていた違和感というのは、社会の大きさの違いだということに、今更ながら僕は気付かされました。

おじさんたちを悪くいうつもりは全くないのです。
でも、やっぱりずっと、実家に居続けると、社会は狭くなってしまう。

生活の全てがそこで完結してしまう。
社会が狭くなるということは、価値観が狭くなるということです。

もちろん、100%実家が悪いと言っているわけではありません。
良いところも、たくさんあります。

でも、その事実をちゃんと分かった上で、自ら意図的に変化を求めたり、
あるいは社会の枠組みを広げたりしなければ、知らず識らずのうちに
とてもバランスの偏った人間になってしまうのです。

面倒を見たい親心を理解して、突き放してあげるのも愛情

親というのは、いつまでたっても親ですし、子供というのは、親の前ではいくつになっても子供です。

80歳になったおばあちゃんが、50代の息子に向かって、「階段危ないから、気をつけなさい」というのが親子です。
そのくらい、親子という関係性の愛情は深くて素晴らしいものです。

親はいつまでも子供の面倒を見たい親心があるのです。
「うちの子はまったく、、」と言いながら、面倒をかける子供が可愛い。

「うちは自立しないから」と言いながら、いい大人になった子供を無意識的に自分に依存させ、「自立させないでおこう」とするのが親心というものです。

その親心を分かった上で、親も1人の人間であるということ。
親には親の人生があると分かった上で、突き放してあげるのも一段上の愛情です。

逆も然りで、子供の可愛さを思うのであれば、子供が自立できるように突き放してあげるのも親の優しさなのです。
お互いが自立すれば、関係性は一段上のものになり、思いやりはより深まります。

親子は一体のものではなく、お互いが1人の人間です。
それぞれが自立しているし、独立して然るべき存在なのです。

自分の人生を生きたければ、お互いを尊重して、親離れをし、子離れをするのが美しい親子の在り方だということを、改めて考えさせられました。

僕自身は父母の3人家族ですが、結果的にお互いが独立した存在で居られると思っています。
そんなことを考えさせられた時間でした。