リアルな人生に疲れたら、インターネットに言葉を書いてみよう

書くということ

土曜日の夜、ひとりでパソコンに向かって永遠にインターネットを繰り返している。

YouTubeで音楽を聞きながら家のことをし、ツイッターを見て、ニュースを読んで、ブログを書いて、合間に仕事をして、また、ブログを開いている。

平成最後の年は、非常に強い寒さがあり、特に関西は地震や大雨があり、そして最大級に暑い夏があった。そんな1年も、残すところ2ヶ月と少し。

僕も大阪へ来て1年半が経ち、2回目の冬を迎えようとしている。

仕事柄、多くの人に会う。営業という仕事をしている人はそうだともうが、僕の社会人のキャリアの中でよかったところとして、会う人たちがめちゃくちゃすごいというところが挙げられる。

平気で上場企業の部長や役員と、毎週のように顔を合わし、喧々諤々(けんけんがくがく)とビジネスの話をやり合うわけだ。

こうして日々、人と会いまくって色々な話をしていると、時々ふと気持ちが疲れてしまう。

そういうわけで、土曜日の夜というのは、どうしても1人の時間を過ごしたくなる。孤独が喧騒を癒してくれるというだ。

今を生きる人たちは情報過多で疲れている

刺激的な日々は楽しいけれど、刺激がありすぎるというのも考えものだ。

今を生きる人たちは情報という名の海に溺れていて、常に刺激に晒されているのだと思う。

だからこそ、リアルな世界で疲れ、そしてリアルじゃないはずのSNSもリアルの延長線みたくなってしまい、結局はリアルと変わらずに疲れてしまう、そんな時代なのだと思う。

僕の友人で、ツイッターもフェイスブックもインスタグラムもやらない人がいるが、僕らの世代でそれは比較的珍しく、そして、ちょっと羨ましい。

あくまでも自分のサイズで、自分の手触りの中で生きていて、しかもその距離感が心地よい。

僕自身は情報の中に生きているし、情報が僕の仕事においても生活においても欠かせないものになってしまっている以上、「脱・ネット」というのは完全には無理であるが、そういう時間を意図的に作るのも良いのではないだろうか、と思っている。

インターネットに文章を書くという曖昧さ

いま、こうして夜中に1人、パソコンに向かってブログを書いているわけだが、それは逆にリアルな世界と情報過多で疲れてしまう僕の癒しになっている。

僕のサイズ感でブログを書くことは、実は程よい曖昧さをはらんでいて、それがまた心地よい。

というのも、完全にクローズドな世界なわけでもなく、インターネットという大きな川に、ひとつの石を投げ込んだ感覚なのである。

それは確かに波紋となって広がって行くものであるが、跳ね返っては来ない。少なくとも、今すぐに反射されるほどのものではないし、僕自身も、そしてこのブログ自身もまだそのサイズ感ではない。

どこかで誰かが呼んでくれていて、それが確かに世界へつながっているし、いろんな人に読まれたいという気持ちもあるけれど、僕が投げ込んだ小石が作り出す波紋は時間差があるわけで、巡り巡って何処かの誰かから跳ね返ってくることもあるし、こないこともある。

リアルな世界に疲れたら、インターネットに文章を書いてみよう。

直接的な跳ね返りはなくとも、確実にそこには存在しているし、何処かの誰かにつながっているという曖昧さが心地よい。

確かに手触りの感覚が残る面白さが、そこにはある。おすすめだな。