書くことを通して世界とつながる。

2018年9月4日日々徒然

人はどうして日記やブログを書くのだろう?

何かの記事がきっかけで、ふと思ったことがある。

僕の理由は単に「好きだから」ということが一番大きな理由なんだけれども、それ以外にも言葉にならない理由があるような気がする。

何かを忘れていく感覚ってあるのだと思う。

何を?と聞かれても答えられなし、そして自分が何を忘れてしまったのかさえわからないのだけれど、そこには確かに何かを忘れゆく気配や確かさのようなものが存在している。

匂いや景色、気持ちがキュっとなるような感覚とか、街の色とか、朝起きて気持ち良さを感じる時の感覚とか、

夜のコンビニに立ち寄り、気だるそうな青年や妙に明るい店内の空気とか、その街に自分自身がいるという妙な確かさとか。

そういうもの。

それらの感情の記憶を結びつけておくために僕はものを書き、人によってはメモを取ったり、日記を綴ったり、写真を撮ったりするのだと思う。

僕はもともと写真を撮るなんていう習慣はなかったのだけれど、最近、妙に街の景色ばかり写真に収めている。

もちろんスマホの写真でパッと撮ったものばかりなので、ちゃんと写真をしている人から見ると、どうでもいいものに見えるかもしれない。

あるいは、誰が見てもよくわからない街や駅や空の写真ばかりなのかもしれないけれど、そこには僕自身の感情の記憶が繋がっているのだと思う。

僕は昔から書くことが好きで、よくノートや日記を綴っていた。

かっこよさになんとなく憧れて、3年日記やビジネス手帳を買ってみたこともある。確か10代半ばくらいだったと思うが、それが丸々続いた覚えはない。

しかし「書く」という行為自体は続けていて、気づけばブログはもうすぐ10年くらいになる。

それ以外にも書きなぐったノートの山はたくさんあるし、それらが今どこにあるのかはわからないけれど(たぶん実家の本棚か引き出しの中にある)、一つ一つの感情や出来事、考えたことを言葉にし、文章にし、形にしたことの確かさは残っているのだと思う。

書くことで手に感じる確かさのようなものが僕は好きです。

忘れないために書いているのとはちょっと違う。

見返すために書いているわけでもない。

じゃあ、忘れないのはなんのため?と言われれば答えに窮してしまう・・

きっと、書くことを通して自分自身を見ているのだと思う。

書くことを通して深いところに降りていって、世界と繋がっているのだと思う。

理由はどうであれ、僕はずっと何かしらで書くことはやり続けるのだろう。

いつも、拙い僕の文章を見に来てくださってありがとう。