お茶会の記録。Part2.

2019年1月6日日々徒然

以前(先週くらい)に、お茶会をして、そのことをブログに書いたのですが。

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今日は、そのお茶会の続きを。お茶会Part2.です。

お茶を飲むというわけではないのだけれど。笑

とあるカフェで、大好きな人たち3人(僕を入れて4人)とお話と勉強会をして、そのままご飯を食べに行って。ドライブにも行った。

そんな楽しい時間を過ごすことができたので、眠る前にブログに書きたいなと思い、深夜1時を回るところですが、帰ってきてシャワーを浴びた後に、パソコンに向かっています。

なんの勉強会をしたかというと、「生き方」のはなし。

つまり、自分自身が生きたいように、自分の人生を生きるために、ということを考えるということ。

自分の人生を、主人公として生きるということですね。

そのために、まずは自分自身のことを知って、考える。

そこから、相手との関係も、きちんと考えること。

自分の人生を主人公として生きるということは、すごく素敵なことだと思うんです。

すごくシンプルで簡単なようなことに思えて、実は、そんなに簡単なことではないように見えたりもする。

なぜなら、多くの人は自分の人生を主人公としては生きていない。傍観者として、他人の人生を生きている。

少なくとも、今までの僕の目には、そんな大人がたくさんいるように思えて。

否、大人だけじゃない。学生だって、同じです。

あなたは、誰の人生を生きているの?と言いたくなるような人は、同世代にだってたくさんいます。

ちゃんと、自分のことを大切にすること。

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少し前に書いたブログには、僕のそんな想いが綴られています。

いろんな話をして、もちろんたった1時間や2時間では終わらなくて、夕方にそのままピザを食べに。

ピザって、ひとつの輪っかのものを、みんなで分けて食べるじゃないですか。

今日なら4人。ひとつ90度のピザに切り分けて、食べる。

みんなでひとつの円卓を囲んで、ひとつのものを食べるみたいで、すごく暖かい気持ちになるんです。団欒だなぁって。

そんな暖かい時間を過ごせる仲間に、感謝です。ほんとうに、ありがとう。

ひとつのテーブルを囲んでの食事のあたたかさ

僕の話をすると、僕は3人家族です。父と母と、僕。

僕は一人っ子です。

ふと思い返してみると、最後に家族3人で食卓を囲んでご飯を食べたのは、いつだろうと。

いつしか僕ら家族は、家族全員で食卓を囲むという習慣は、なくなっていました。

多分それは、僕が幼い頃、小学校に上がってしばらくした頃にはもう、その暖かさというものはなくなっていたはずです。

そのあとももちろん、何かしらのイベントーー家族にとってのイベントということ。親戚で集まるとかーーがあった時に、食卓を囲むということはあったのだけれども、日常的に家族で夕飯を食べたりするということは、もはやありませんでした。

僕はいつしか、そのあたたかさを求めていたのかもしれない。

気づけば僕は、タイミングが合えばたまに母親と食事をすることはあっても、基本的にはご飯を一人で食べるようになっていました。

そうしようと思ったとか、きっかけがあったとか、そういうことではないのだけれど、気付いた時には僕はすでに、ご飯はひとりで食べるという習慣が身についていて。

今思い返すと、暖かさを求めていたことの裏返しかもしれない。

きっとあの頃の僕は、今よりももっとひたむきに、真っ直ぐなままに、自分の居場所と、そして人のあたたかさを求めていたんだと思うんです。

家族3人で外出をするということも、ほとんどなかった。

幼少期の思い出はあるのだけれども、それも決まって出先ではいつも、必ずと言っていいほど大喧嘩をしていた。

僕が、ではない。父と母が、です。

根本的に合わない2人だったのだろうなと。僕はいつしか、家族の中に居場所というものがなくなっていきました。ゆっくり、ゆっくりと。それはまるで、自分という存在がどんどんと薄くなっていき、地下に吸い込まれていくような、そんな感覚でした。

居場所はいつも、自分の中にあった

僕は10代の頃、いつも見えない「何か」と闘っていました。

それが一体なんだったのかは、今となってもよくわからないけれど。

そして僕は気づけば、大学生になっていました。

自分の中の奥深くにあるその「何か」から目を背けながら。

僕が、こうして誰かとご飯を食べにいくようになったというのは、本当に最近のことです。

大学に入った頃は、全くと言っていいほどそんなことはなかったし、毛嫌いすらしていた。

少なくとも今のように複数人でご飯に行くこと。その温もりに直に触れられるようになったのは、今年くらいからのことです。

何もご飯に限ったことではないのだけれど、僕の居場所はいつも、僕自身の中にあったんです。それ以外には、なかった。きっとあの頃の僕は、ずっとそれを必死に追い求めていたのだけれど。

初めて僕が、人ではなく場所で、すごく居心地の良い居場所だと初めて感じたのは、僕がこの1年ちょっとインターンシップで関わった場でした。

それが僕の人生の中で、初めてできた居場所だった。

それまで大学という場所に感じていたのは、もちろん大学も図書館も居場所だったのだけれども、それはどちらかというと、それ以外の場所から逃げるための場所であったんですね。

この感覚というのは、言葉にするのは少し難しいのですが。

そして今年に入って僕は、誰かとの関係の中で、つまりは人とのつながりの中で、その中に僕の居場所ができる感覚というのを知りました。

それは僕自身の人生の中で、初めてのこと、初めての経験でした。

その居心地の良さだったり、やさしさだったり、温もりだったり。

それらに触れて、ゆっくりと僕の中で、それまでの十数年で凍っていた何かが溶けて行くような、そんな感覚を覚えていきました。

あまりに大事すぎで、近づきすぎるのが怖くて、逃げようとしていた時期もあります。

見たくなくて、触れたくなくて、そしてそれはきっと同時に、その大切なもの、大切な人を失ってしまうという怖さを持っていた。

すごく、怖かった。

泣きそうなくらい、怖かったんです。

僕自身に、そんな感情があったんだということに、初めて気づくことができました。

感情は、何かに触れて初めて実際に揺れ動くんです。

そして揺れ動いて初めて、その存在を知ることになるのだと。

その時僕は初めて、それに気づくことができました。

時計は、もうしばらくすると2時を回ろうとしている。

気づけばこんなにたくさんのことを書いていた。。

やっぱり夜中に文章を書くと、その先にどこに向かうのか、自分でもわからなくなってきます。

ほんとうに、いい1日だった。

その温もりを大事にしつつ、おやすみなさい。

ありがとう。