僕のコトバの源泉たち

2018年9月4日書評(という名の感想文), 大学時代

社会人になって1年。

実家に帰省するたびに、自分の部屋に大量に積み上げられた本たちを眺め、一冊一冊に触れるたびに、学生時代がフラッシュバックして来ます。

僕が大学時代から書いているこのブログは、この4月でちょうど2年になりますが、2年前の僕の記事を読むと、燻(くすぶ)っていた時の怨念というか、迫力が綴られていることがわかります。

今思い返しても、だいぶ狂気に近い感覚が自分の中にありました。

そんなことは、他の人にはいうものでもないし、伝わるものでもないのだろうけれど。

次のステージに行きたくて、その中で「いま」を全力で生きてはいるんだけれど、どこか冷めていて。

一方で、ひたむきに本を読み漁り、成功者たちの物語に興奮し、ひとり大学の図書館に篭っていたあの頃があったからこそ、今があるのです。

人は10代や20代の若いうちに、圧倒的に閉じ込められるという経験をしなければ、跳ね上がらないと僕は思っている。

その頃に溜め込んだ自分への鬱憤と、社会への怨念が、いい形に転換されてエネルギーとして爆発するのです。

社会という大海原に出ると、実はその感覚はどこか忘れ去られてしまう。

いい塩梅で自分の立ち位置がわかり、居心地がよくなってしまった頃には、もう、若かりし頃に抱いていた未来への期待や思いは、彼方へいってしまうんです。

実家に帰省するたび、本に触れるたび、そんな思いを抱いて、どこにも向けることができないエネルギーを学問へ、読書へ、そして、「書く」という文章へ向けていた頃を思い返します。

それが、僕の原点です。

いつになっても、その原点とエネルギーは忘れてはいけない気がする。

実家の本棚には、学生時代までの怨念が詰まっているのです。