僕が書き続ける理由。〜書かないと、おかしくなってしまう自分がいる〜

2019年1月6日書くということ

「ブログ、あれだけ書けるのはすごい!」

僕の尊敬する大人の方らから、そんな言葉をかけてもらいました。純粋に、嬉しい。

何が嬉しいって、僕の書いているブログを、読んでくれていること。しかも、過去の記事を遡って、その変化を見てくれている。

人の書いたブログを、過去に遡って読むというのは、非常にエネルギーがいること。同時に、書き手ーこの場合は、書いた文章が書き手を表すーに対して興味が持てないと、いくつもの記事を読むことなんて、できないと僕は思うんです。

誰かが、僕の記事を読むために時間を使ってくれるということ。その時間は、その人の1日の中から割いてくれたものなんです。

たとえそれが5分であっても、5分間を僕の書いた文章を読むことに使ってくれた。これほど、嬉しいことはないんですね。

なんのために、こんなにも”書く”ことをし続けているのか。

僕の書いているものに関しては、ぶっちゃけ、これを発信したい!とか、誰かに届けたい!とか、そんなことはありません。ゼロではないけれど、ほとんどない。

書きたい内容に一貫性があるわけではないですし、むしろ、書きたいことしかない。これは以前から変わっていないもので、そして特に最近、その瞬間瞬間で書きたいことをブログに書く。ということが加速しています。

10代からつけていたノートを見返してみる

昨日の夜、僕は自分の部屋の本棚の中から、以前僕が書いていたノートを色々と見返していました。

昔から、やっぱり「書く」ということが僕の支えであったし、言葉はずっと拙いですが、そして今書いている言葉はもっと拙い時もあるけれど、それでもやっぱり書くことは僕にとって大切だった。

ノートを見返している中で、ちょうど20歳の頃の僕が書いた一文がありました。

日曜の午後は、静かで、平和で、そして孤独です。

と、綴られていた言葉を目にして、なんとも言えない気持ちになりました。僕は3年前の日曜の午後に、どんな想いでこの言葉を書いたんだろう、って。

大学に入った当初は、本当に話す人がいなかった。学科の中にいても、挨拶や世間話はするのだけれども、きちんと自分の気持ちを話すということは、少なくとも当時の僕にはできませんでした。

人は、どうやら1日に話す言葉の量が決まっているようで、口から言葉を発しない分は、他の何かに転換しなければ、フラストレーションがたまるようです。

現代、特に若い世代の人は、リアルでの友達が少ない人ほど、SNSだったりでよく喋る。それは、そういった理由が大きな要因なんだと思っています。

僕の場合は、特に内側から湧き上がってくるエネルギーが、半端なかった。

考えたこと、言いたいこと、伝えたいこと、表現したいことが、無尽蔵に溢れてくるわけです。そのエネルギーは、一体どこからきているんだろう。。と真剣に悩みました。その根源は、性欲なんだろうか。承認欲求なんだろうか。それとも人に元来備わっている闘争本能を、何かにぶつけたいのだろうか、、と。

同時に、そうやって溢れ出てくるものを何かに転換しなければ、おかしくなってしまう自分がいました。そして、僕の場合は、それが「書く」ことでした。書くことは、誰かの日々を救うことなんだと。

来年から企業人として社会に足を踏み出す僕は、来年以降も、こうして書くことを続けているんだろうか。

日々の忙しさに追われる中で、書くこと、つまりは自分自身と向き合う時間を取れなくなることが、一番こわい。

一方で、就職するという道を選択した僕は、以前からその葛藤を経験したいという思いがありました。僕の内側のもっともっと深いところにあるものが溢れてきて、それが僕が本当に伝えたいこと、発信したいことになるんだと。そしてそれは、ある程度抑圧された社会を経験することで、より良いものになるんだろうと。そんな風に思っています。

自由は、大切。でも僕は、自由な生き方を手に入れることと同時に、抑圧された社会を経験してみたくなったんです。確信したのは今年ですが、漠然とそう決めたのは、10代後半の頃。その当時から、大学卒業後は、組織の中で、そこでしか味わえないことを経験したいな。それが10年先15年先の未来に、きっと僕にしか語れないものになっている、と。そんなことを考えていました。

これから先もきっと、書くことは続けている。それが僕の人生だと思っています。

いつも、僕の書いたブログを見にきてくれて、ありがとう。