褒められることが苦手な人へ 〜比較されたくないというプライド〜

2018年9月13日日々徒然

大学の友人から「自分は人に褒められるのが苦手で、、どうしたらいいんだろう。それについて、何かブログに書いて!」と言われました。

正直に、その言葉はとても嬉しかった。なぜなら、僕はその人が、僕のブログを読んでくれているなんて、思ってもいなかったこと。加えて、それについて何か書いてと言ってくれること。2つの意味で、すごく嬉かったです。

いつも僕がブログを書くときは、誰かの顔を浮かべながら、その人に向けて書くことが多いんですね。より多くの人に共感して欲しいとか届けたいとか、それももちろんある。それもあるのだけれど、それよりも、誰かひとりでも僕のブログを読んでくれて、ひとつでも「おっ」と思ってもらえたら嬉しいし、気づきになってもらえたら嬉しいし、笑ってくれたら嬉しいし、ほっこりしてもらえたら嬉しい。そんな想いで、日々ブログを綴っています。

まあでも本当は、好きだから書いているのですが。うん。笑

どちらも本当です。ありがとう。

安易に褒められることが嫌いという、自分のプライド

さて。

誰かに褒められることが苦手というのは、僕もすごくわかる。僕も10代の頃から、誰かに気軽に褒められるのは、苦手というよりは嬉しくないし、若干イラっとするんです。

どこからそうなってしまったのかは、あまり覚えていませんが、多分中学2年から3年にかけてくらいの時期だったと記憶しています。逆にそれまでは、親や教師、周りの人たちに「すごいね!」と言われることが嬉しくて、そのために頑張っていたわけではないのだけれど、無意識的にその賞賛が”当たり前”になっていた。実際に僕は優等生タイプ(タイプです、決して優等生ではない)でしたし、勉強も部活も、わりとよくできる方でした。

しかし、そんな生き方に対して疑問を持ち始めたことをきっかけに、他人の評価ではなく、自分軸で周りの社会を見るようになった。ちょうどその変わり目くらいのときから、それ以降は無意味に褒められるということに関して、イラっと思う自分がいました。

”いました”というのは、実は最近の僕は、ほぼ人と関わりたくないと思っている自分がいて、それこそ褒められることもその逆も、本当にどっちでもよくなってきているんですね。ただ、今の僕はわりとトガり時期だったりするので、人に不必要に干渉されたくないという気持ちの方が強いのかもしれません。

僕の話をすると、まず僕は、ものすごくプライドが高いまま10代を経て、今の自分がいます。富士山級のプライドの高さを持っていることが良いか悪いかという議論は置いておき、事実として僕は、プライドが高かった。今思い返すと、ちっぽけなプライドを纏っていたなと思うこともありますが、今までの僕はそうでもしないと生きてこれなかったので。

プライドが高いままに大学時代に入った僕は、人と交わることがすごく嫌でした。人の輪の中に入るなんて、もってのほか。そんな感じで大学2年まで過ごし、ひょんなきっかけから僕は、大学2年の終わりから今に至るまで、それまでとは全く違うことーー今やっているような、学生活動だったりインターンシップだったりーーをして、気づけばものすごく人と関わることをするようになっていました。

僕は大学時代に、その2つの時期を経験し、改めて、他人から褒められるということが、すごく嫌だということに気づかされました。

まず僕は、一般的な承認欲求というものが、ほとんどない。というのも、多くの人に自分を知って欲しいとか、すごいと言われたいとか、そういうことにはまったく興味がない。そしてそれは、この人は!と思った人に認められていれば十分、ということの裏返しなんです。0.1%の人が僕のことを知って、認めてくれていれば、他はどうでもいいと思える。

否、むしろ、他の圧倒的多数の人から例えば「すごいね!」とか「頑張っているね!」とか、そういう安易な評価と賞賛を受けることに対して、すごく嫌がる自分がいる。それは一つ、自分の高いプライドと関係していると思っていて、僕の中をきちんと見ているわけではないのに、安易な言葉をかけてほしくない。頑張っているねという抽象的な言葉で、他の人と比較しないで欲しい。人に評価されたくない。そういった思いがあるからなんです。

一番大きくあるのは、きちんと見ていないくせに、安易に人と比較しないで欲しいという気持ちでしょうか。ひとくくりにされること、「あなたはこういう人」とラベルを貼られて評価されることに対して、ものすごく嫌悪感を抱くんです。そしてそんな気持ちが僕の中にあること自体、自分でもすごく驚いています。薄々気づいてはいたけれど、言葉にできるようになったのは、最近のことなので。

こうして言葉にすると、きっと人によっては、僕はすごく嫌なやつに見えると思うんですが、本当に思っていることだからしょうがない。そして、僕自身が他の人に対してそういうことをしている節もあるので、それはとてもやめたいと思っている。

例えば僕がこの1年間関わってきたインターンシップにおいても、すごく多くの就活生を含む学生、そして社会人に出会います。他の活動においてもそうだし、僕自身の就活においても、約半年間でたくさんの学生や企業の方に出会ってきました。

でも、じゃあその人たちに僕のことを認めて欲しいかと言われると、全然興味がなくて、むしろ安易に褒められたりすることは、すごく嫌だったりするわけです。就活という社会的な評価をもらう場においてすら、僕は企業に評価されること、ランクづけをされることは嫌でしたから。

もちろん、企業からの評価は説得力になり、かつ自身の向上に繋がっているということは、十分にわかっているつもりです。

重ねて、自分の就職活動を通して、最初にある企業から内定をもらったことは、もちろん嬉しかった。嬉しかったのだけれど、同時に、僕にとってはそれはしかるべきことでした。言い方はあれですが、それはそうだろうという気持ちだった。だから、嬉しさと同時に、それの元になっているものに紐づいて来る評価やランクづけといったラベルが、嫌だったんですね。

僕自身はこの1年間、一見すると目に見えにくいところーー少なくとも、関わっている多くの人にとっては見えづらいところーーに関して色々な仕事をしてきて、そしてその見えにくいところをわかってくれる上司であったり、それを見ていてくれる大切な人たちが僕のことをわかってくれていて、それこそが僕にとってすごく大切なものでした。承認欲求というよりは、なんだろう。うん。

それが僕にとっての、十分条件だったんですね。それ以上は、必要なかったんです。それ以上でも、それ以下でもない。

就活の話をすると、いま僕は、ひとつ内定をとって無事に就活を終えることができました。

そしてそう言った話が広まると、「どこそこに受かったの!?やっぱり優秀だよねー」とか言われるわけで、そして善意でそれを言ってくれている人に対してはすごく申し訳ないのだけれど、嬉しくもなんともない自分がいて。素直に受け取れない自分が嫌だったりもするのですが。

内定という目に見える結果は大切。でも一方で、そんな小さなことで、人の評価がこうも変わるのかという現実を目にして。

だからこそ、目に見える「何か」を持つことは、説得力になるということ。そして、にもかかわらずやっぱり、目に見えないところが、大切で。という、一見矛盾するようなことを抱えて、今という時間を過ごしています。

なぜそんなことをわざわざここに書いているのかと言われれば、それはひとつ、僕の本心をただ書き綴っておきたいという気持ち以外にはない。そのまま、です。

やっぱり好きな人には褒められたい!

とまあ、長々と書いてきましたが、それでもやっぱり、自分の好きな人に褒められたい!と思う気持ちはあるんです。

大切な人、信頼している人。大好きな人たちの「がんばっているね」とか「がんばっていると思うよ」とか「偉いね」とか「素直だね」という言葉は、それだけでもう十分に嬉しい。

究極、人は大切な人の言葉を聞くために、がんばれるんだなって思うんです。

つい先日、僕は大切な人から「偉いね」って言葉をもらって、それが色々な感情と相まって、溢れるほどに嬉しかった。子どもっぽいと自分でも思うほど、まっすぐに嬉しかったんです。

言葉って、いいなぁ。

僕もまだまだ、わからないことだらけで、それが面白い。自分のことすら、わからないことばっかりだけれども、少しずつ進んでいきますね。

ここまで読んでくれて、ありがとう。また話しましょう!

<追伸>

僕はこのブログを、金曜の夜の大学の図書館で、しかも2階の奥の方で大きな窓に向かっている、人目に付きにくい1つの机に向かって、書いています。もうすぐ夜の9時を迎えようとしている。

こうして静かな、誰にも干渉されない場所でひとりブログを書いたり、本を読んだり、しかも顔をあげれば隣も、その隣も、僕以外の「ひとりでいる誰か」も、そういう世界に入っている。それが、すごく心地の良い空気なんです。その中で誰かが机に突っ伏して眠っていたりとか、僕も時折そうしてみたりとか、あるいは誰かが友人を見つけて小声で喋っていたりとか、そんなひとつひとつが心にくっきりと残る、いい時間を過ごしています。