講義を聞くことが、勉強をすることではない。
僕は大学時代、ものすごい数の講義をとりました。
特に大学1年、2年生の頃は、本当に勉強以外にすることがなかったので、1日中勉強ばかりしていました。
多い時には僕は、半期で36単位もの講義を取っていた。
36単位というのは、1週間の時間割にすると、長方形です。1限〜5限まで全部講義が入っているというのは、割とざらにありました。
僕の専門は物理でしたので、物理の専門科目があります。数学もあります。物理学科ですが、毎学期ごとに数学の講義が多い時で3種類ありました。
例えば、「微積」と「線形代数」と「自然科学数学」と「物理数学」と。こんな感じです。
僕はそれに加えて教職科目を取っていました。「教育課程」とか「教育原理」とか、そういった講義に加えて、「カウンセリング」などの心理学系の講義もあるわけです。
僕が取る教職の免許は「高校物理」ではなく「高校理科」なので、専門の物理以外にも、「化学」「生物」「地球化学(地学)」も取っていました。ザ・理学部です。
語学も第2外国語まであります。教養課程の講義もあります。さらにプラスで集中講義もあります。
こんな感じで講義を取っていた僕は、2年生が終わる頃には、卒業単位数である124単位を取り終えていました。
書き間違いではありません。2年生が終わった時点で、単位数だけ見ると卒業単位数を超えていました。
これだけの講義を取って、単位だけ取っていたんだろう。ちゃんと勉強をしないと、結局は意味ないよ。
そんな風に言われたこともありましたが、そんなことはない。笑
僕は、全部の講義で無遅刻・無欠席で出席していたし、ほとんどの講義で成績は「A(優)」です。
教職科目の講義では、レポートで書きたい放題に書いて、教育学部の先生とぶつかりまくって嫌われて、どう考えてもトップ通過だと思っていたら評価が「B」だったとか、
あるいは期末一発勝負でめちゃくちゃ難しいテストをする化学で、うちの学科からは3人しか本試験で受からなかったテストに一回でパスしたのに成績が「C」だったとかもありましたが。笑
それ以外はわりと順調で、4年生に上がる時点で理学部主席で推薦されています。
ここで書きたいのは、僕の成績を自慢したいことではなくて、実は、ただ講義に出席をして、授業を聞くのが勉強をすることではないのだ、ということ。
自分自身で、本気で勉強をしたい、例えばそれが本を読みたいというものでもいい。あるいはこの先生からだけでいいから、すべてを吸収したい。そうやって向き合えるものがあるならば、それをとことんに学ぶことが勉強であって、それ以外は、言葉はあれですが、ぶっちゃけどうでもいい。適当に受けた講義の内容なんて、試験やレポートが終わった瞬間に全て忘却の彼方です。
勉強したことに無駄はないんだという意見は正論ですが、圧倒的に時間が貴重な大学時代の勉強は、とことん突き抜けてもいいと僕は思っています。
僕が後輩たちに伝えたいことがあるならば、それは、1つの学問でも、1人の先生でも、あるいは1つの講義でもいい。何かしらこの勉強に本気で向き合いたい、と思えるものがあるならば、それがあなたの財産になるんだ、ということ。真剣に向き合った時間は必ず、何らかの形で、あなたの中に残り続けます。
教室の最前列で堂々と本を読んでいた
僕は講義を受ける際に、どんな講義でも、教室のほぼ最前列の真ん中よりちょっと左側に座る、という習慣がありました。
最前列に座るのは、講義に参加したいから当たり前の話で、ど真ん中に座らないのは、講義を客観的に見たいという思いがあったから。少し左側に座るのは、僕が右利きで、かつものすごい量のノートをとるから、左側の方が黒板を見やすい、という理由です。
ほとんどの大学生は最前列に座らないですから、いつも悠々と座ることができ、快適に講義を受けていました。
快適に講義を受けていたというのは、僕は1番前に座って講義を受けながら、堂々と自分の勉強をしていたからです。
物理の場合は、堂々と参考書とノートを広げて、講義を聴きながら、同時に自分で参考書を読み進めていた。
いろいろ試した中で、その方が効率が良かったからです。
物理以外の講義では、僕はずっと読書をしていました。
専門書を読むことももちろんありましたが、大半はそうではなくて、僕が普段読んでいるような本です。小説だったり、ビジネス書だったり。一番前の席に座って、です。
もちろん、講義は聴いている。否、誰よりも真剣に耳を傾けていたはずです。
そもそも講義に出席しない人もいる中で、出席のために教室に来た人は、教室の後ろ側半分に座っていて、かつ寝ていたり、スマホを触っていたりする人が大半でしょう。
人間は集中していると、目で本を追いながら、同時に耳で講義を聴くということくらいはできます。
別に僕は、必ずしも講義に出席すること、講義を聴くことが勉強だとは思っていません。すべての講義のすべての時間が有意義であるなんて、いくらお世辞でも、僕にはそんなことは言えない。
教室の外でやるべきことがあったならば、おそらく僕は出席すらしなかったはずです。出席点がどうこうとかいうものに対しては、堂々と「それはおかしい」とぶつかっていたはず。
ですが幸いなことに、僕が講義を聴く以外にやるべきことは、特に当時は「本を読むこと」とを含めた「勉強をすること」しかなかった。
だからこそ僕は、教室の最前列で、堂々と本を読んでいました。
その講義の中で「おっ」と響くものがあれば、誰よりも真剣にノートを取っていた。
途中で手を上げて質問をしたり、意見を言ったり、そうやって参加し続けていました。
一方で、聞きたくない時間は、より自分がしたい!と思える勉強をしていた。僕の中では、それがいたって自然なことでした。
今考えると、例えばビジネス的にはすごく失礼なことをしているとも思いますが、でも大学の講義というのは自分自身のための学問探求の場であるし、そもそも授業料を払っているのは僕ら学生であるので、その時間をどんな風に使うのか、というのは自分自身に問われるんだと思っています。
そしてもちろん、その責任も、自分で背負う。
そんな態度で注意されないのか、とも思いますが、不思議なことに、教授からそんなことを言われたことは一度もありません。そんな僕を受け入れてもらっていたことに対して感謝です。
そしてそれはきっと、誰よりも真剣に、その一コマ90分に向き合っていたし、テストは誰よりも勉強して臨んでいたので、しかるべき点数を取っていたからだと思います。
同級生たちがどう思っていたかはわかりませんが。。
打ち込める何かがあるなら、それはすごく素晴らしいことだ
上のようなことを書くと、大学生の中には「自分はちゃんと大学で勉強していない、、」と思う人が多いのかも、しれません。
でも、そんなことはない。ぶっちゃけ、そんなことは関係ない。
もしあなたが大学生ならば、何でもいいから、打ち込める何かがあるのなら、それをとことんやりきった方がいい。
「やりきる」というのは難しいけれど、そしてもちろん「やりきる」ことができるのかというと、そんなものはないのかもしれないのだけれど。
それでも、後悔しないくらい打ち込んで、ああ、自分は大学時代にこれに打ち込んだな。いい時間だったな。そんな風に思えるものがあるならば、それはすごく素晴らしいことだと僕は思います。
勉強なんて、終わりはありません。
やればやるほど、わからないことが増えてくる。
そして大人の勉強というのは、どれだけやっても、「もっとやっておけばよかったな」と思うものです。それが子どもの勉強との違いなんじゃないかと思っています。
あなたは、人生を通して、何に打ち込みますか。
やってもやっても、まだ先がある。もっと、もっと。そんな風に思えることは、何ですか。
翻って、僕自身は、人生を通して、何に打ち込むんだろう。
その一つの要素が「書くこと」であることは確かで、そしてそれは要素でありつつ、全てを包含するものであることもまた事実だと思っています。
そんな風に思える今に、感謝。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
<追伸>
愛情と、信頼と。
発信することを、僕はしてありたい。
【読んで欲しい記事】
僕のブログの中で、もしよければぜひ読んでみて欲しい記事をいくつか。
いつも僕のブログを読みに来てくれて、ありがとう。