世の中の「なんで?」を考えることが青春だと思う

日々徒然

以前の記事に「僕は昔、おはようございますという挨拶をする意味を考えて、実験してみた」と言う記事を書きました。

最近興味があることをつらつらと

社会や世界のこと、いろんなことを知りたいと思いつつ、同時にそれらの知識を消化する時間も必要だと言うことも書きました。

今こうして社会に出て仕事をするようになって思うことは、僕の10代や学生時代の青春というのは、世界を知ること・考えることだったんだなあと。

正解のないことをいかに考えるか。いかに生きていくかを考える。

この2つが青春だったし、自分と向き合う中で生き方を見つめる時間だったのだと思うのです。

正解がない問題を考えることを楽しもう

「変化の時代」と言われて久しいですが、変化の時代の中で変化しながら生きている人は実はそう多くはありません。

コロナの時代は1つの大きな社会変化ですが、変化できなかった社会を大きく変化させ、10年後にくる未来をたった数ヶ月で実現させました。

例えば今まで皆が薄々感じていたこと(満員電車は無駄だよねとか、ハンコ文化って意味ないよね、とか)を証明したので、コロナショックがなければ5〜10年かかっていた社会変化を一気に数ヶ月で押し進めました。

働き方、遊び方、暮らし方、生き方。
いろんなものが変化しつつある社会なんですけれども、皆一様に「正解」を求めてしまいます。

正解がない時代の想定を教わらずに大人になるのですから、そりゃあそうだということなのですが、そもそも正解がない時代の中で「みんなが同じ」を求めるという生き方は、楽しいのだろうかとも思えてくるのです。

学生時代までの学問は「正解を求める」学問です。
問題と模範解答があって、それらをいかに効率よくインプット⇄アウトプットできるかがポイントでした。

でも、社会に出てからは、模範解答からいかに離れらるかが価値になるのです。

人間の偏りが魅力を生む

大人になって才能を開花させていく人たちの多くは、学生時代はどちらかというと地味で目立たない、なんならちょっと「オタク」と言われるような人たちが多いことに気づかされます。

クラスの人気者だった人、優等生だった人はそのまま会社員として歩んでいるケースが多いのです。

でも、20代も後半に入ってくると、同級生でちらほら名前が世に出てくる人たちがいます。
そういう人たちの共通点は、学生時代までにちょっと変わった人たちだったということです。

ちょっと変わった人というのは、ようは偏りのことです。

偏りが大きければ大きい人ほど、社会に出るとそれが魅力になるのです。

例えば、学校の勉強はピンとせず、ひたすら絵や漫画を描くことに没頭していた人は、学生時代までは「あの人ってちょっとオタクっぽいよね」と言われるわけです。
ゲームに没頭していると、親や教師からは「ゲームばっかりやっているとダメな大人になる」と怒られるわけです。

でも、20歳を過ぎると自己責任の社会に突入するわけですが、そこからさらに自分の好きな漫画や音楽やゲームを追求していると、1点突破で道が開けてくるのです。

10代までにふつふつとフラストレーションをため込みながら、自分の好きなことに没頭していた人。周りから見た時に偏りが大きい人ほど、それが時間差で魅力となって花開くケースは枚挙に遑(いとま)がありません。

その偏りは魅力を生むにも関わらず、その偏りを正そうと変に圧力をかけてしまうのは、決まって周りの大人たちです。

親や教師が容認してくれるのであれば、周りの同級生たちと比較して多少変わっていても、安心して偏ることができます。10代というのはみんなそうなのです。

なぜ、周りの大人たちは偏りを正そうとするのかといえば、自分たちが「そういうものだ」と教えられて育ってきたからなのです。
そして「偏りが人間の魅力になる」という経験をせず、周りにそういう魅力的な(偏った)人たちがいなかったからなのです。

好奇心に蓋をしているなと思ったら、街の子どもたちを眺めてみよう

世界中で1番、好奇心を持っているは子どもです。

子どもにとって社会は、世界は、あらゆる「なんで?」に溢れています。

なんで電車は走るの?なんで空は青いの?なんで猫は気分屋さんなの?
なんで勉強をするの?なんで学校に行かなければいけないの?なんで働くの?

いろんな「なんで?」を持っているにも関わらず、周りの大人たちが「そんなことはいいから、ちゃんとしなさい」とやっていると、自然に好奇心に蓋をしてしまうようになります。

大学生くらいまではまだいいのです。なんだかんだいって「なんで就職しないといけないんだろう」とか「好きなことだけしていたらダメなのか」とか考える人もたくさんいます。

そこで「周りの人がやっているから」という理由で、つまらない選択をするのではなくて、とことんその「なんで?」を追求してみて欲しいと、勝手ながら僕は思っています。

究極、小中高大学と学校に通うわけですが、学力をつけるとか学びの基礎を身につけるとか、それらも大事です。
でも、その根元にあるのは「なぜ?」を探究するという人間の生き様だと僕は思うのです。

大人になって、最近「当たり前」とか「そういうものだから」という言葉が多くなってきた人は、一度フラッと街を歩いてみてください。
街の中には「なんで、なんで星人」の子どもたちが溢れています。

そしてあなたの知らないところで、実は大人になっても自分自身の好奇心に蓋をしないままで生きることができている人も存在します。

そちら側の生き方もまた、楽しいと思うのですがいかがでしょうか。