最近興味があることをつらつらと
在宅勤務で約1ヶ月半が過ぎたわけですが、コロナとか在宅勤務とかを一旦抜きにしても、わりと分かりやすく興味の対象が移り変わっているので、備忘録も兼ねて書いてみようと思います。
まず、興味の「枠組み」は大きくは変わっておらず、一貫して「世の中の仕組み」とか「本質的な方程式」とか、そういう探究心みたいなものが僕の原動力です。
昨日まで知らなかったことを、今日知ることができたのであれば、今日という日は僕にとってすごくハッピーなものだし、毎日「昨日の自分よりも何か変化敷いてる状態」が楽しくて毎日を過ごしています。
北野唯我さんの『分断を生むエジソン』という本の中に「西の国の住人のモチベーションは変化量」という表現が出てくるのですが、まさしく僕の人生の原動力は「変化量」です。
変化量を数式で書くと「変化量Δ=今日 − 昨日」のことで、昨日よりも今日が、今日よりも明日が変化していると僕は幸せを感じられる人生のようです。
さて、興味の枠組み(変化量が大事)は変わりませんが、その興味の「対象」というものが移り変わってきていることを最近感じるのです。
点ではなく線、時間軸に興味を持ち始めた
最近大きく変わってきているなということは、興味の対象の「時間軸」と「枠組み」です。
時間軸というのは、今(あるいは最近とかここ数十年単位)で起きていることへの興味対象から、過去→現在という時間の中で、何が・どのように変化してきたのか?という部分に視線が行きます。
例えば、すごく分かりやすい例でいうと、今回のコロナに関連してですが、人類の「感染症の歴史」とかを、過去から紐解いて考えてみるとか。
あるいは、人類の歴史でいくつかのターニングポイントがあったわけですが、そのターニングポイントで何が、どう変わったのかを考える。
地球誕生の隕石衝突とか、恐竜絶滅とか、産業革命とか、最近だとインターネットやスマホの普及で人々の生活が変わったとか。
2020年に起こったコロナというのは、それらに匹敵するほどの社会的インパクトを与えたと僕は思っているのですが、過去から今を眺めた時に、あるいは現在から過去を対比させた時に、何が言えるのか。
別にコロナのことだけではなくて、文化とか、言語とか、哲学とか、政治とか、地理的・歴史的背景とか、あらゆる対象を考える時の時間軸が長くなっていて、今この瞬間の社会や経済は、なが〜い線の中における1点であるという感覚がとても強くなっているのです。
サイエンスを学んでいたときは、その感覚が強かったです。過去の知見を積み重ねて現代化学兵器ついているわけですから。
でも、サイエンス以外の興味の対象は、せいぜいここ数十年とかの時間単位でしか物事を捉えらていなかったのだと、今となっては思うのです。
この表現って、伝わっているのかな?笑
この本は素晴らしかった。こういうことを知るのが僕は楽しくてしょうがない。。
情報や知識を「消化」する時間が必要
あとは、割と最近言語化をした僕の思考興味の特徴なのですが、人に言われて気づきました。(それまでは割と自分にとっての普通だと思っていた)
僕はですね、できることなら毎日家でダラダラと過ごしながら、映画を見たり本を読んだり、そしてネットをしながらいろんな情報に触れて思考して世の中を眺めて楽しみたいのです。
世の中の情報を集めて思考するという習慣は、学生時代から半ば僕の趣味のようでした。
今は割と仕事に直結しているのですが、好きでやっていたんですね。なので僕にとって自室にこもって本を読んだり、パソコンをしたりする時間は至福の時だったんです。
最近言語化したこととは、僕は単に情報や知識を手に入れたい知識欲求だけでは割と満足せず、仕入れた情報や知識を、自分の思考に漬ける時間が必要なのです。自分の体験と紐づけて理解をするプロセスこそが、大事だったりするのです。
まあお前がいうなよって感じですが、頭でっかちに物知りになりたいわけじゃないんです。
いろんなことを知りたいけれど、単に知識として知りたいのではなくて、世の中のいろんなことが「なぜ、そうなっているのか」とか「どういう因果関係にあるのか」とかを知りたくて、それを考えたり調べたりするのが楽しいんですね。
少し前にある人と会話をしたのですが、例えば日常の1つ1つの習慣も僕の興味の対象だったりしてきたので、「挨拶をしましょう」とか家庭や学校で習うわけですが、僕にとっては「なぜ、挨拶をするのか?」ということがすごく知りたいわけです。
当然、幼少期のその答えを聞いても答えてくれる大人はいません。せいぜい「そういうものだから」とか「挨拶した方が良いでしょ」とかね。回答になっていないっつーの。(牧野か!)
例えば「おはようございます」というのはどんなに早朝でも、あるいは夜の世界の人たちが18時に出勤しても必ず入りは「おはようございます」なんですね。その意味って知りたくないですか?という話です。
僕は学生時代に、「だったら挨拶をしないでおこう」と試してみたことがありました。
どのくらいの期間かは忘れましたが、数日間、挨拶をしない期間を設けるわけです。
小学校とかでよく「あいさつをしましょう」とかスローガンを掲げているところも多いですが、挨拶をする意味を本質的に教えたり、考えたりする教師には、少なくとも僕が知る限りは出会ったことがありませんし、「挨拶をしなければならないのはなぜか?」と質問をされても「みんながそうしているから」という回答が関の山でしょうか。
「そういうものだから」という思考停止でも良いのですが、僕は気になるタチだったので、挨拶をしてみない期間を設けてみたわけですね。
とまあ、挨拶をしなかったらどうなったのか、という話は本質的ではないのですが、大事なことは「自分が納得することを突き詰める」という体験をどれだけ持つかということだと僕は思っていて。
それは実は「納得しないことはやらない」ということではないんです。念のため。
社会で成功したければ、本物がいっていることを、たとえ今は理解できなくとも「やってみる」ということはある一定大事だとも思っています。特に未熟なうちはそうです。
でも、「とりあえずやってみる」と「思考停止」はまったく別物ですので、自分なりにいろいろ考えてみてはいかがでしょうか、ということ。僕はそれが楽しいので、自分自身の好奇心を満たす人生を送っている、ということです。
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