本当に良質な受験参考書は、勉強中に進路変更を考えさせるほどのものである

2020年5月3日子育て論, 書評(という名の感想文), 大学時代

3月も中旬を迎えた今日は3月14日。
ホワイトデーと言うことだけれど、東京には今日、季節外れの雪が降ったと言う。

山手線の駅から見える

「ホワイトデーに降る季節外れの雪」っていう響きは何かいいよね。笑

さて、来月は4月ということで春に新生活を始める人たちも多いと思う。

かくいう僕も、来月は大阪から東京への引っ越しをして新生活を始めるわけだけれども、新社会人として一歩を踏み出す人たちと、新大学生として新たな一歩を踏み出す人たちにはとりわけエールを送りたいと思う。

社会人になってこの4月から4年目に入るのだけれど、この3年間で経営者や大企業のビジネスエリートの人たちと喧々諤々(けんけんがくがく)と向き合ってきた経験から思うことは、

「大学時代まで、一生懸命に学問に打ち込んできて、本当によかった」

ということ。

大学受験までの暗記偏重な日本の勉強を否定する人たちも多いけれど、やっぱり広く「教養」を身につけるという意味では最低限ベースとなる知識は必要になる。

ここでいう「最低限」というのは教養人や高学歴の人たちにとっての最低限であり、そうでない人にとっての最低限のラインとは著しく掛け離れていることに留意して欲しい。

社会に出てからは何よりも「学び続ける」ということの重要さを痛感するし、その意味を感じられるためには教養が不可欠になってくる。
そしてより自身を磨いていこうと思うのであれば、『教養』を身につけることが何よりも大きな価値を持つということに気づかされる。

大学時代までに学ぶ基礎学問は社会に出てからの教養になる

これは僕が今となって感じることだけれど、5教科7科目を学ぶ大学受験までの勉強というのは、実は社会に出てから「教養」としてかなり効いてくる。

例えば、国語は大きく「現代文」と「古典」(=古文・漢文)に分かれるけれど、「現代文」というのは日本語で書いてあるからと言って誰しもが出来るわけではないということは、多少受験勉強をした人ならその意味がわかるはずだ。

「現代文」というのは英語や他の外国語、あるいは古典と違って「日本語で書かれている」というのが実はたちが悪い。
「日本語で書かれているから、フィーリングでわかるだろう」という錯覚を覚えさせてしまうのだ。

けれれども、実際に日本語で書かれていた文章を読んでも、文章の意味がわからないどころか、書かれている単語の意味すら全くわからないという状況があっても、何ら不思議ではない。

大学受験レベル1の日本語として「具体」「抽象」「演繹」「帰納」「権威」「権力」「形而上」などの言葉があるが、それらの言葉を何ら違和感なく用いれる人というのは意外と少なく、そしてそれらを「知らないという事実」と向き合うことなく大人になってしまう人たちも多い。(僕自身が社会に出てそういう方々とたくさん会ってきた経験から確信した・・)

人はどうも日本語だとなぜか、無意識のうちにきちんと学ぶという謙虚さを失ってしまうようだ。

最低限の日本語というのは、きちんと学ぶ姿勢がなければ一生学ぶ機会がないし、それらを知っている教養のある人たちとそうでない人たちとでは、社会に出てからは交わらないようにできているのが社会の面白いところ。

国語だけではなく、例えば数学においても、小学校レベルの「算数」をきちんと習得している人というのは、意外と少ない。「数学」ではなく「算数」である。

そんなの嘘だ、と思う人も多いと思うけれど、実は大人の大半が今、小学校卒業レベルの算数の試験を課されたとして、9割以上を取れないだろう。

 

それ以外でもたとえば社会で習う地理や歴史、あるいは「哲学」といったものは教養人の必修科目だし、理科においても少なくとも高校受験レベルの(ようは義務教育卒業水準の)知識は必須ではないかと僕は思う。

もう一度いうが、それらは社会に出てからの教養としてすごく重要なものだし、その大切さに10代のうちに気づけなかったのであれば、大人になってから1年に1テーマずつでもいいので学び直しをすることにこそ、意味があると思っている。

本当に良質な受験参考書は、勉強中に進路変更を考えさせるほどのものである

ブログのタイトル回収になるのだけれど、僕は受験勉強時代に「これは素晴らしい・・」と唸らされた参考書に出会うことがあり、今となってそれらを見返してみると、後退りするほど良質かつ本質的な内容が綴られていることに気づかされる。

例えば国語(現代文)の良質な文章には、今の社会情勢や人間の本質が詰め込まれており、それに触れることで大学受験後の進路を考えるきっかけになったという人は多いはずだ。

あるいは英語の文章もそうで、グローバルの中でいま、何が起きているのかということを表している良質な文章は、机に向かう受験生に世界の広さと生きる術を与えてくれるし、場合によってはその学びによって進路変更をさせられたという人だって多いはずだ。

僕は駿台の英語の教科書と、数学は「大学への数学」という極めて素晴らしい参考書によって、大学で学ぶことへの憧れを積み重ねていった。

 

さて、ここでは大学受験の何某を書きたいわけではない。
僕のブログを読んでくれている人の大半は20代以降の人たちだから(いつもありがとう)、その人たちに向けて1つの気づきとなればと思って、次の言葉を綴りたい。

今だからこそ、もう一度、学び直しの贅沢を味わってみませんか?

 

大学受験用の参考書の中でも、今でも学べるものや、むしろ今だからこそ価値がわかるというものも多い。

あるいは受験参考書とは少し異なるけれど、教養の一冊としてまとめられている良質な本を手に取ってみませんか?

まずは週末に1時間でも机に向かうことからでも始めてみてはどうかということで、僕がオススメをするいくつかの本を挙げてみたいと思う。

これは暗に、僕と一緒に学びという楽しさと贅沢を味わってみませんか?というメッセージでもあります。ホワイトデーにぴったりでしょ。

 

現代文キーワード読解[改訂版]

まずは日本語、特に「現代文」の語彙力本として有名なこの本を。

このブログでも書いたように「語彙力」というのは必ず必要になってくるし、使う言葉によって付き合える人たちが変わってくるというのが社会のホンネ。

教養レベル1の下限として、今一度、「現代文は外国語」だと思って学び直しをしてみるのもいいと思う。お風呂に浸かりながらパラパラめくると癒されるのは僕だけでしょうか。。笑

 

あと、意外かもしれないけれど、英単語の本をお勧めしたい。

話題別英単語リンガメタリカ[改訂版]

実はこの本は「英語を使って、社会のことを学べる参考書」として読んでとても素晴らしい本なので、「英単語を覚える」というよりはむしろ「教養の教材」として読んでみてはいかがだろうか。

僕も大学受験時には英単語帳として色々なものにトライをしたが、今となって残っているのは実は「英語そのもの」ではなく「英語を用いて学んだ内容」の方だと気づかされる。

 

挙げたらキリがないので、一冊、まとまった本を推薦しよう。

この本は「教養の教科書」として、幅広く教養の知識として知っておくべき内容が網羅されている良質な本なので、一回さらっと目を通してみることで、知っておくべき「教養の範囲」がわかるようになる。

そこで知った内容を、さらに詳しく書かれている別の本で学んでいくというのが理想なので挙げてみた。

(番外編)理系の人へ、学び直しの楽しさを思い出させる本を推薦

ここからは少し番外編なのだけれど、受験時代に数学の楽しさにハマった理系(に限らず文系でも良い)が、学ぶ楽しさを思い返す本として「大学への数学」を挙げてみたい。これは月間の雑誌だ。

毎月、購入するのを楽しみにしていた10代の僕だけれど、参考書という側面以上に「読み物」として素晴らしいと思う。

受験生は孤独なので、全国の受験生の人たちが何を考えているのかということを知ることができて(だいたいアホなことを数学など教養に掛け算をしていて、それがまた楽しかった)、ああ、自分もそういうことがあったなあと思い返すことができる。

あと、僕は物理専門だったので、物理の問題集は一通り学んだけれど、問題集よりも楽しかったのは「雑誌・Newton」だ。

大人になってからはむしろ、問題集をゴリゴリ解くというよりは、趣味の範囲で楽しさを重視したほうがいい。
なので、高校時代に理科が好きだったという人はもちろん、「物理なんて、、」という苦手意識を持っている人に対しても、読み物としての雑誌として是非ニュートンは手に取って欲しいと思う。

新しい知識を得たいという欲求を持っている人にとっては、これ以上ない娯楽本だと僕は思う。

 

少し長くなってしまったけれど、いかがだっただろうか。

受験に近い本を挙げたので、次はまた、別の領域における教養としてのオススメ本を書いてみようと思う。

学ぶって、楽しいね。皆さんのオススメの本があれば是非、教えてくださいな。
いつも読んでくださって、ありがとう。