太宰治も夏目漱石も源氏物語も現代文も、大切なことは全て「国語」が教えてくれた
学校の勉強で一番大事な科目ってなんですか?
と聞かれることが割に多い。
僕の答えは明白で、それは『数学』以外にはありえない。
いや、国語も大事だという?あなた。うん、そうだと思う。国語も大事。
人は「数学」で思考をし「国語」で表現を学ぶ。
だから、どっちも大事だと思うんだ。
実際に僕が学校に通っていた時は、国語の授業は好きだった。
なぜなら、冒頭に必ず「本を読む」ための時間があったから。
国語の先生はあまり好きではない大人が多かったけれど、授業の冒頭にクラス全員で本を読む時間がある国語の授業は大好きだった。
え、なんで国語の先生は好きじゃなかったかって?
んー、なんだろう。
今思い返してみると、おそらくは「答え」を教える先生が多かったからじゃないかな。
ハウツーを語る大人に、人間としての深みとか魅力を感じなかったんだと思う。
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もちろん「国語」という科目を「受験科目」として捉えると、そん受験科目を効率的にクリアするという前提でいえば、答えの導き方や考え方を教えるというのは正しいと思う。
でも、そんなものは予備校でやってよ、とも思うのだ。
学校で教える国語という科目は、世界の名文たちを通して筆者と対話することができ、10代という多感な時期に圧倒的な教養の土台を築くことができる、非常に重要なものだと僕は思う。
というのはお固い考え方かもしれないですが、要は色々な感情や背景があるということを直接的に学ぶことができるのは(主要五科目の中では)「国語」以外にはない、というのが今の学校教育。
太宰治も夏目漱石も源氏物語も現代文も、大切なことは全て国語が教えてくれた
受験における国語という科目と、純粋に学問や教養として学ぶ国語という科目では、全くその性質が異なるんだね。
何が違うって、それは明白に「対峙する相手」が違う。
受験国語で向き合う相手は「出題者」。
一方でそうではない場合に向き合う相手は「筆者」となる。
向き合う相手が違うから、全く違う思考回路を作らなきゃいけないということ。
学問や教養として学ぶ「国語」という科目は、純粋に筆者に向き合えばいい。
その文章を書いた人、書き手という意味。
その文章を書いた人のことと、書かれたその文章にまっすぐ向き合って、今の自分を投影するんだ。
物語の中に入ってみてもいいし、過去にタイムスリップをしてみてもいい。
筆者の主張する論理を追いかけていってもいいし、純粋に読み物としての娯楽を味わってもいい。
そうやって味わう言葉や文章の一つ一つがあなたの心と頭を成長させるための養分になるんだ。
一方で受験科目としての国語はちょっと違う。
筆者がいて、文章が書かれている。
それを解く君達がいる。
そして何よりも、問題を出題する「出題者」(や作者)と呼ばれる人たちが間にいるんだ。
筆者と出題者、そして君達という三角形が出来上がる。
君達が問題を解く場合、一番考えるべきは「その筆者がどういう意図でこの文章を書いたのか」ではなく「出題者がどういう意図でその問題を作ったのか」ということ。
考えるべき相手、向き合うべき相手は「筆者」ではなく「出題者」ということになる。
そしてそれが時には恐ろしい結論を生むのだけれども、答えは容易に想像できると思う。
そう、出題者の意図を正確に読み解くことができる人こそが、国語ができる人という冠を背負ってしまうゆえに、ボタンを掛け違えてしまうんだね。
とはいえ、受験国語が悪いものかというと、必ずしもそうではないと僕は思っている。
色々な意図・背景、ストーリーがあるにせよ、国語という学問は広く世の中の物語や文章を教えてくれる。
僕は10代の頃から(むしろ小学生の頃から)本が好きで好きで、あらゆる活字を貪り読んだけれど、国語の時間に配布される活字ももちろんあっという間に読破した。
そして昔の物語や書き手に思いを馳せ、そうやって僕の青春は作られていったんだ。
そう、大切なことは全て国語が教えてくれたといっても過言ではないと思っている。
僕の思い出は、あの野暮ったい教科書の中の物語、そして資料集に書かれたメモ書きに詰まっていることを思い出す。