つくる、つながる、届ける 〜 note書いています宣言【3回目】

書くということ

知っていました?僕、noteもやっているんです。

ゆってぃ(Yuttie)

noteのコンセプトは「つくる、つながる、届ける」です。

僕が作りたい自分の場所というのもそういう場所で、だからこのブログをやっています。
このメディア(ブログ)自体はまだ数年の話ですけれども、10代の頃から書き続けているブログ歴は10年以上になるわけです。

ブログという手段を通して自分の書いた文章を世の中に発信するということは、僕にとって生きる意味でした。
大げさではなく、「書く」という行為を通して自分を見つめ、そして世界と繋がっていたのだと思います。

僕にはこの場所(ブログというなのオウンドメディア)があるので、noteの立ち位置というのはなかなか難しいのですけれども、やっぱりどっちも持っていたい。

この平成から令和に変わる連休で帰省をし、たくさんの時間を「読む」と「書く」に費やし、改めて僕がやりたかったことの原点を思い返す中で、僕自身で何かをつくり、誰かとつながって、届けたいんだと。

その根っこにあるのは「10代の僕」という存在で、あの頃の僕自身が知りたかったこと。社会のリアル。生きるということ。
そんなことを届けられる存在でありたいなと思うわけです。

僕のくすぶりの原点

実家に帰省をし、人と会ったり僕の大学時代の場所を回帰したり、母親と話をし、母方の実家に行ってみたり。
その一方で、自室にこもり、机に向かってひたすら過去の自分が書いた鬱憤のノートの山を見返してみたり、人に見せれないような書籍の書き込みなんかを見つめながら、僕の人生のくすぶりの原点を思い返していました。

圧倒的に限られた小さな社会。
切り取られた世界はとても狭く、そして「こんなところで終わりたくないんだ」という自分への期待値と、何もない実力と社会的にはほぼゼロに近い評価の自分とのギャップに苦しみ、その鬱憤の行き先は必然的に人ではなく「書く」という行為を通して発散するしかありませんでした。

書くということがなければ、僕はもしかしたら、生きていなかったのかもしれない。
実家の自室の本棚には、そのくらい激しい10代の僕のくすぶりが眠っていました。

帰省をしてきた中学時代の友人とも会いましたが、彼も同じ。
彼はふるさとを出て(捨てたに近い)東京の大学に行き(早稲田でした)、そこで就職をし、来年には結婚をするという。

僕と彼は価値観も生き方も違いますが、10年以上の歳月に渡って友人でいられる理由は、根っこにあるくすぶりのエネルギーみたいなものに惹かれあっていたからなのかもしれません。

彼もまた、自分の生まれ落ちた場所と環境、家族を疎ましく思っていたし、だからといってひどい環境だったわけではなく、むしろある程度恵まれていた方かもしれないという事実も享受している。
でも、自分はもっと違う世界に行くんだというコンプレックスを原動力にしながら進んでいく彼もまた、僕と似たような人間なのかもしれません。

最近のブログを読み返してみました。
なんとまあ、つまらない内容が多いこと。

経験も増え、仕事のこととか社会のこととか、もともと「書きたい!」と思っていたものを書いている今の方が、10代や大学時代の頃に書いていたよくわからない文章に比べて、格段につまらない。

つまらないというのは、内容というのも一つ、あとは書く側のエネルギーみたいなものかもしれません

こうして自分の書いた文章を、1人でも他の人が読んでくれているわけですから、「読んでよかった」「得した、いい気分になった、気づいた」というようなものを書きたい、届けたいと思っている。それはもちろんそうなのです。

でも、僕じゃない人が書いてもいいよう内容や、他に調べれば分かるような内容を書いてもしょうがないというのもまた一つあるわけです。

それでもなお、書き”続ける”ということに、意味があるのだと思っている。
僕はまだまだ人生の入り口から一歩踏み出したに過ぎないわけですから、これから先のリアルと、僕自身で見ている世界というものを書いてありたい。

改めて、大人の少年で、僕はありたい。

そんなことを思い浮かべる、今日この頃です。