他責思考で悩んでいるひとは、実は視点がものすごく大きいと聞いたはなし
「他責思考」はNGで、じぶんの身の回りで起こっていることはなんでも「自責思考」=自分に原因があるという前提で物事を考える ということが大切なんだ。
社会人になれば、よくそんなことを言われたこともあるかと思います。
でも、それって本当にそうなの?というはなし。
そういうことを聞いて、ちょっと僕なりに考えたことがあって書こうと思います。
他責思考って、人のせいにしっ放しのことではないよ
まず、僕の前提なのですが、僕自身そもそも他責だの自責だの、全くもって考えたことがない(要は興味がない)人間です。
会社という組織は面白くて、必ず「誰それ(たとえば上司)が悪い」とか「うちの組織はよくない」とか、そういう話が出てくるものです。それがいい悪いということではなくて、組織というのはそういうものなのです。
(ということを、社会人を1年して、ようやっと分かってきました)
そこで、その次に出てくる話が「あいつは他責だ」とか「自責で物事を考えられないやつはダメだ」とか、そうやって、話の主語が「誰それ」でなされる会話というものがついてきます。
僕的には、そんなことはどうでもよくて、まあ要は自分と自分の周りで起こっている事象にしか興味がないということなのだけれど。
社会人になって1年半と少しがたちますが、これまで一度も「他責が」とか「自責で」とかいう言葉を使ったことがありません。そしてこれからもないでしょう。

他責思考というと、ぱっと見は「自分に責任がないように考える」=「誰かのせいにする」という思考習慣ゆえに、イケてない人のように語られるのですが、必ずしもそうではないのだということ。
もちろん人によりますが、という前提のもとでいうと、他責思考の持ち主というのは、一般的にかなり客観的(かつ論理的)に目の前で起こっている事象を捉えていることが多いのです。
当たり前ですよね、「こういうところがよくない」とか「ああいうことをした方がいい」というのは、客観的に物事を見ている必要があるわけです。
そういう人というのは実は、ものすごく大きな視点で物事を解決する思考や視点の持ち主である可能性だって往往にしてあるのです。
100%感情論になってしまうのはやっぱり社会人としてどうなの?というところもありますが、そうでないならば、一概に「他責思考はダメだ!」と叫ぶことが短絡的なのかもしれません。
重ねて、とある人材輩出企業と呼ばれた事業会社の雄は、実は他責思考の人を積極的に採用していた時代もあるそうです。(と聞きました)
そういう人材の方が、社会環境を大きく見て課題を立て、その解決に向けて邁進することができる優秀さを持っているということなのだそうです。
自責ばっかじゃ人生しんどいよ
一見すると自責思考の人は優秀であるように思われます。事実、そうなのかもしれません。
身の回りで起こっている事象すべてに対して、その一端の責任は自分にあると考えられるわけです。
仕事においては結構大事かもしれない能力で、翻って自分自身には何かできることはなかったのか?とか、あのときAではなくBという選択をすればよかったな、とか。そういうことを常に考える続けられるからこそ、ビジネス的に向上していくことができるといいます。
でも、自責ばっかりの人生て、しんどくないですか?普通に。
例えば、とある会社の社長は社員に対して、「外で雨が降っても自分の責任として考えろ!」というようなことを平気で言い続けるのです。
それ自体は半分冗談かもしれませんが、とはいえ、日々常々にそういうことを言われ、「そうなのか、そうだ、世の中すべて自責だ!」と考え続けた真面目で優秀な人は、いつか心を壊してしまうかもしれないのです。
(事実、僕の知っている優秀で極めて自責思考の方は、心を痛めて体を壊してしまいました)
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別に、そんなことはどうでもよくない?というのが僕の意見。
まず、人生は正論だけじゃないですよ、という話。
他責がNGとか、自責が大事とか、それ自体は正論かもしれませんが、だからどうした?という話です。
そして、自分自身のことは、自分で一番大事にしましょうよ、という話。
自分の人生です。どれを取っても正解なわけです。
僕自身こうありたいなというのは、常に自分は自分、それ以上でもそれ以下でもないという存在を等身大で見つめていようということ。
背伸びもしないし、必要以上に卑屈になることもない。
別に感情がないわけではないですよ、僕だって人間らしい人間です。
結局は、等身大でい続けることができる人がいいのだと僕は思うのです。