大学時代とは、大人になる勇気を持てずに現実に目をつぶり、笑って過ごせた日々のことである
僕の大学時代を振り返ってみると、大学2年生の後期が終わる頃。
春休みを迎える頃から、ちらほらと周りのクラスメイトたちが「資格学校」に通い始め、空気が変わり始めたことを実感しています。
大学2年生が終わるということは、4年間のうちの半分が終わるということ。
残りもう半分も、こんなにも早く過ぎ去ってしまうのかもしれないという怖さと、自分も先輩たちと同じように、いつしか大人にならなければならないのかという時間が迫る感覚が、誰も口にはしませんが、誰しもが感じていたことだと思います。
見たくない現実が少しずつ差し迫ってくることを誰しもが感じていながらも、今日の楽しさと明日への曖昧さで生きていた。
「大人になる」と決める勇気を持つことができず、仲間と朝まで笑って過ごす日々もまた、ひとつの大学時代なのだと思います。
大学3年生にもなると、少しずつ、就職活動を始める同級生が出て来ます。
僕の通っていた大学は、地方の国立大学。都会の私立大学のように、情報感度が高い人たちの集団ではありませんでしたから、理系の教授が勧めるように「資格試験」の勉強をなんとなく始めてみたり、仲間を誘って公務員講座に通ってみたりする人たちが多かった。
「我が道を行く」と理系路線を進む人。あるいは、ほとんど何も考えない人。
そして、一部ではあるものの、自ら外の世界にアクセスをして、つながりを広げる中で自分の人生を考える人。
そういった人たちを羨ましいと思いながら、「みんな同じ」に位置しながらも周りを気にしつつ、なんとなく時間が過ぎて行く。そんな人たちが多かったように思います。
大人になるということは、社会という名の大海原に漕ぎだすこと
大学を卒業し、否応ながらも社会人になっていきます。
アルバイトで働きながら、公務員試験で浪人を重ねている人たちも社会人ですし、大学を辞めて転々としている人たちも社会人です。
大人になるということは、自分の人生を、自分の足で立って生きるということです。
時間の経過とともに社会人にはなるけれど、大人になるということは案外難しかったりもします。
社会という名の大海原は、時に残酷です。
社会の荒波に飲まれ、自分自身が流されていくことだって大いにあります。
でも、広く澄み渡って晴れた大海原の景色は、陸から漕ぎ出してみなければ感じることができません。
自由に生きるとは、そういうことだと思うのです。
大海に漕ぎだしていくときに、あなたはどこに向かってその船を漕ぎだすのか?ということです。
自分で作った小さな船に乗って、一漕ぎずつ進んで行くことも一つです。
大企業という大きな客船に乗って、その一員として進んで行くこともまた一つ。
忘れないでいて欲しいのは、その船がどこに向かって進む船なのか?ということ。
そしてそれは、あなたが向かいたい行き先に向かう船なのか?ということです。
翻って、僕はあの頃思い描いた大人になることができているのだろうか。
大阪で、1年半が過ぎました。
2回目の夏が終わりました。
10年越しの青春をいま、過ごしているのかもしれません。
熱く、生きています。